1 1945(昭和20)年の郡山空襲

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 1945(昭和20)年4月12日、郡山市はアメリカ軍のB29による大空襲を受けた。その日は朝から晴れて暖かい日であったが、午前11時7分頃突然空襲警報が発令され、3機ずつ編隊を組んだ9機のB29が郡山上空に侵入し空襲を開始した。その後から数分おきに11機・13機・9機・13機・9機・13機・11機が侵入し、延べ136機で波状攻撃をかけてきた。

 この空襲での被害箇所は、旧市内では郡山駅と駅前の商店街、駅東の工業地帯の保土谷化学工場・東北振興アルミニューム工場、方八丁・横塚の民家、富久山町の日東紡績富久山工場と、その付近の陣場・本木部落であった。東北で仙台・青森に次ぐ3番目に大きな被害を出し、460名の住民が犠牲となった。なおこの時、勤労動員生で犠牲となったのは保土谷工場に勤務していた白河高等女学校(現在の白河女子高校)の生徒14名、安積中学校の生徒5名、郡山商業学校の生徒6名、安積高等女学校の生徒1名で、合計26名の生徒の命が奪われている。


アメリカ軍爆撃機B29(上)と
爆撃を受けた建物(下)

 同年7月29日には2回目の空襲があり、郡山駅付近と日東紡績富久山工場、中島航空機会社(現在の安積黎明高校北西部)及びその付近の民家が爆撃された。この空襲で駅員10名を含む市民39名が犠牲となっている。

 3回目・4回目の空襲を同年8月9日、同10日に受けた際は、高瀬村金屋にあった海軍航空隊が攻撃目標とされ、兵員14名と金屋など周辺集落の住民18名が犠牲となっている。

 このように、4回にわたる空襲により多くの尊い人命が失われたばかりでなく、駅前・金屋・横塚・陣場・本木等で約500戸の建物が焼失倒壊し、郡山市は有史以来最大の被害を受けたのである。アメリカ軍の爆撃機はこの他にも7月10日・8月13日・14日に飛来しているが、その時の被害はなかった。


郡山罹災状況図

1945年4月12日の死者数
場所 死者数
保土谷化学工場 204
日東紡富久山工場 92
東北振興アルミ工場 47
浜津鉄工所 4
郡山駅 11
富久山町 7
横塚 22
方八丁 30
市内 5
航空隊 5
場所不明 33
合計 460