1 戦争の傷あと

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 1945(昭和20)年8月15日、アジア・太平洋戦争は終わった。

 戦争に敗れた日本の荒廃(こうはい)は、一言に言い表せない悲惨(ひさん)な状況であった。郡山市の表玄関であり繁華街(はんかがい)でもあった駅前通りの被害は大きく、さらに、工業都市を担ってきた郡山の工場のほとんどは戦時中軍需(ぐんじゅ)工場と化していたため、爆撃の標的とされ、はげしい空爆による被害を受けていた。

 終戦を迎えた1945年から次の年にかけては食糧事情(しょくりょうじじょう)も最悪の状況となり、さらに中国・朝鮮・南洋諸島(フィリピンなど)等、外地からの引揚者と復員軍人だけでも約3,000人にのぼり、郡山市民は、戦災者、引揚者、復員軍人がひしめきあう、混乱した生活を送った。


戦前(1939年頃)の郡山駅前(写真右下が焼野原になった)(『郡山市史6』P42)

郡山への地域別引揚者
地域別 人員(人)
満州 1,035
樺太 109
ソ連 151
南鮮 310
北鮮 191
中国 680
台湾 190
南方 181
その他 40
合計 2,887

1950年8月までの集計
(『郡山市史6』P14)