郡山市にはじめてアメリカ軍の部隊が進駐(しんちゅう)してきたのは、1945年9月28日である。郡山市内には、約1,600名のアメリカ兵が駐留し、占領政策(せんりょうせいさく)の遂行に当たった。兵舎は、田村町金屋の旧海軍航空隊兵舎(へいしゃ)と、富田の旧陸軍兵舎が充てられた。
この頃、アメリカ軍は「ジープ」という小型自動車で走りまわった。当時乗用車が1台も無かった郡山市役所では、1台寄贈を受けている。一方でアメリカ軍からは、ダンスホールをつくれ、ダンサーを集めろと言われ、やむなく作ったという記録もある。
こうした中、アメリカ軍との文化交流も行われた。郡山の有力な文化団体であった翼賛郡山文化協会では、英語の普及活動として英会話講習会を開催した。また、アメリカ軍でも、市民との交流をはかるために、日本語学校の開設を希望し、1945年11月からは、安積中学校(現在の安積高等学校)の英語教師である奥山常夫や斎藤徳太郎がこれに当たった。
アメリカ軍は、1946年の暮れ頃まで郡山に進駐していた。