戦争が終わって、市民は衣・食・住に困窮(こんきゅう)した。その中でもひどかったのは食糧事情であった。市民への主食の配給は、戦時中は1日に2合(ごう)3勺(しゃく)であったが、戦後は1日2合1勺に減らされた。しかも、それは米ばかりでなく、豆・麦・小麦粉・乾パンなどの代替配給で、それにアメリカ軍から放出されたトウモロコシなどが加わった。食糧事情が戦時中より悪化し極端にひどくなったため、市民は竹の子生活(皮を1枚ずつはいでいくように、少しずつ売り食いすること)と買い出しによって、なんとかその日、その日をしのぐのが精一杯であった。
配給だけで生活できないと考えた都市生活者は、衣料品を持って農村に出向き、食糧を求めた。一方農村では衣料品が不足していたため、都市生活者が持参した衣料品を、節約して貯めていた米や穀類などと交換した。やがては闇(やみ)商人の登場を促し、街頭には闇物資が氾濫(はんらん)し、焼け跡の駅前広場や貯金局前などには闇市が公然と立ち並ぶようになっていた。これら闇市で売られている物資のなかには、終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場などにひそかに確保されていた物資が横流しされたものもあった。