日本国民、郡山市民は、このような混乱の中で戦後の復興(ふっこう)に努力した。
戦時中の郡山市内では、空襲により多くの尊い命が失われたばかりでなく、約500戸が焼失又は倒壊(とうかい)した。また、建物の密度を減らして爆撃(ばくげき)による延焼(えんしょう)被害を少なくするための政策として、家屋疎開(かおくそかい)が行なわれており、強制疎開(きょうせいそかい)(命令により家を壊すこと)や任意疎開の戸数を合わせると計2,500戸以上が失われ、その被害面積は約5万坪に達した。
福島県と郡山市では、このような戦災を1つの契機として、将来への防火と交通を考え、住みよい都市にするための復興計画を立てた。当時郡山市長であった大島破竹郎は、かつては郡山市の軍都指定に奔走した人物であるが、戦後は立場を変え、戦災復興都市指定の獲得に努力した。こうして1946年6月に、郡山市は国から戦災復興都市の指定を受け、新しい郡山建設に向けて立ちあがった。戦災復興の土地区画整理事業を実施するために、福島県では郡山に戦災復興事務所を設けた。郡山市では、区画整理委員会を組織、市民は促進協力委員会をつくって事業に協力した。
こうして、1947年から駅前地区、駅裏地区(方八丁地区)、酒蓋(さかぶた)地区の3ヵ所の土地区画整理事業がはじまった。この中で駅前地区について触れてみる。駅前広場や道路の大幅拡張など、将来の発展を見越した計画が立てられたが、面積は少ないが繁華街で人口密集地帯である上、戦災を受けた地区と受けない地区などが混在していた。そのため、促進協力委員会をつくって事業に協力する市民がいる一方で、反対同盟をつくって反対する市民もいた。事業開始当初は換地、補償などで難航したが、事業の重要性が理解されて1955年に事業は完成し、その記念として、駅前ロータリーに「平和の女神の像」が建てられた。なお、現在は、この駅前ロータリー自体が撤去され、像は移設されて郡山市総合体育館敷地の南西に建っている。
これら復興事業の完成後の姿は、当初の計画と異なる点もあるが、都市計画の構想をいち早くたてることができたのは、戦災復興都市の指定があったからであった。
〈参考文献〉
『郡山市史6』・『郡山の歴史』(平成16年版)