1945(昭和20)年12月、衆議院議員選挙法が改正され、20歳以上の男女に選挙権が与えられ、女性の参政権についても認められた。
この新しい選挙法による戦後はじめての選挙(第22回衆議院議員総選挙)は1946年4月10日に投票が行われた。福島県は1つの区とされ、13名の定員に対して83名の立候補者があり、当選者は保守系11名、革新2名で、そのうち2名が女性であった。
1947年4月5日には、福島県において初の公選知事の選挙が行なわれ、石原幹市郎が選ばれた。続く4月30日には県会議員の選挙が行われ、定員59名のうち50名を新人が占めた。郡山市・安積郡選出の議員は各2名で、そのうちの1人は革新系議員であった。
郡山市議会は敗戦後6ヵ月の間、1回も開催されなかったが、1946年3月に戦後最初の通常市議会が行なわれた。この議会において、はじめて地方選挙管理委員会が設置され、その人事が提案された。なお、市長大島破竹郎は、1946年に出された公職追放令(戦争に協力した者を公職から追放する命令)によりこの市議会を最後に退職した。
第1回の郡山市長選挙は1947年4月5日に実施され、伊藤七司が選ばれた。しかし伊藤は、就任してわずか数日で、公職追放令によりアメリカ占領軍から公職不適格者とされ、市長の座を追われてしまった。そのため、再選挙が5月22日に行われた。再選挙は、1回目の選挙で法定得票数に達する者がいなかったため、上位2名による決戦投票が実施され、本間善庫が当選した。
本間市長の任期満了にともなう公選3代目の市長選挙は、1951年4月30日に行われた。現職の本間に対し、丹治盛重、原孝吉がそれぞれ2度目の出馬、それに多田暢と社会党から相馬正雄の4人が挑戦した。結果は、1位本間と2位丹治の決戦投票となり丹治が当選した。
1959年の選挙では、現職の丹治に前回惜敗(せきはい)した秀瀬日吉が社会党に入党して再出馬、自由党は市議会議長下河辺行雄を後任として立候補させた。結果は、秀瀬が丹治の3選を阻止(そし)し当選した。
戦後はじめての郡山市会議員の選挙は、1947年4月30日に行われた。定員36名に対し79名の立候補があった。候補者の得票数は最高858票、最低が97票、当選者の所属は無所属が大部分で、自由5名、民主3名、社会2名、共産1名、新人が20名であった。
1951年4月23日に実施された第2回市会議員選挙の立候補者は85名(定員36名)、1955年4月30日に実施された第3回選挙の立候補者は58人(定員36名)、1959年4月30日に実施された第4回選挙の立候補者は52名であった。
期日 | 得票 | 候補者 | 投票率 | 摘要 |
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1947.4.5 | 9720 | 伊藤七司 | % 81.14 |
|
5958 | 原 孝吉 | |||
5605 | 星 勇 | |||
2167 | 大森達雄 | |||
1947.5.22 | 8212 | 本間善庫 | 72.9 | 伊藤七司追放による再選挙 |
5392 | 星 勇 | |||
4903 | 丹治盛重 | |||
2720 | 佐伯 健 | |||
676 | 川田昌孝 | |||
136 | 梅谷芳光 | |||
1947.5.29 | 12707 | 本間善庫 | 71.38 | 法定得票に達せず決選 |
8828 | 星 勇 | |||
1951.4.3 | 11217 | 本間善庫 | 89.1 | |
9248 | 丹治盛重 | |||
5174 | 原 孝吉 | |||
3976 | 多田 暢 | |||
2489 | 相馬正雄 | |||
1951.5.15 | 16218 | 丹治盛重 | 85.29 | 法定得票に達せず決選 |
14597 | 本間善庫 | |||
1955.4.3 | 17376 | 丹治盛重 | 91.1 | |
17199 | 秀瀬日吉 | |||
7282 | 星 勇 | |||
1959.4.3 | 21379 | 秀瀬日吉 | 92.56 | |
20486 | 丹治盛重 | |||
7925 | 下河辺行雄 | |||
1963.4.3 | 30954 | 秀瀬日吉 | 90.85 | |
23052 | 丹治盛重 |
(郡山市選挙管理委員会資料より)