2 労働運動と市民活動

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 郡山地区は、常磐(じょうばん)地区とならんで、戦前から労働運動の活発なところであった。1946年5月にはメーデーが復活し、第17回メーデーが約1万人が参加し開催されたが、これは1935年の第16回メーデーを最後に禁止されて以来であった。この第17回メーデーを前に、20を超す労働組合が生まれ、生活を守るために賃金引き上げや労働条件の改善を要求した。1947年2月には郡山地区労働組合会議が結成され、1951年には郡山地方労働組合会議と改称して労働運動の中心となった。

 1959年に第7回の県労協定期大会が開かれたが、生産性向上運動をめぐって対立し、全労系労組が県労組を脱退して、福島県民主労働組合を結成した。県民労郡山地区会議は、1960年8月に、日東紡績労組、東北電労郡山分会など民間組合によって組織された。この時期の戦いとしては、福島県南交通労働組合の賃金引上げと経営の民主化を要求した争議、大東相互銀行労働組合の裁判闘争が代表的なものであった。

 1960年代に入って、労働事情に変化が現れた。それは、米づくりを中心とする農業の機械化による省力化や、他の産業との所得格差が関係して、農村から都市への人口の流出が顕著(けんちょ)になったことである。

 1960年、郡山市は労働文化祭をメーデーに関連して開催した。また、この年母親大会が、はじめて郡山で開催された。「生命を生み出す母親は生命を育て生命を守ることをのぞみます」との大会スローガンをもって、県及び市内の職域の婦人部・地域婦人会から2,000名が参加した。

 この1960年は、「新安全保障条約」の締結をめぐって、国会内の討論を中心に全国的に行動が拡がった時期であった。郡山市周辺でも、連合青年団をはじめ、組織労働者に様々な影響を与えた。

(仲村哲郎)
第2表 郡山市労働組合数・組織状況調
区分 労働者数 労働組合員 組織率 地方労 地区同盟
年度
 
1955(昭30)

-

16922

-

10409

-
56(昭31) - 16992 - 10744 -
57(昭32) - 16543 - 11056 -
58(昭33) - 16538 - 13698 -
59(昭34) - 16980 - 12928 -
60(昭35) 41578 18291 44 13725 -
61(昭36) - 19137 - 11329 3317
62(昭37) - 19753 - 10587 5238
63(昭38) 54976 20625 40 10155 4419
64(昭39) - 20196 - 10593 4329
65(昭40) - 23493 - 11114 5037
66(昭41) 63039 23383 37 12171 4744
67(昭42) - 23936 - 12982 5434
68(昭43) - 26276 - 12800 6341
69(昭44) 78272 28311 36 12807 6517
70(昭45) - 29166 - 13062 6855

(『郡山市史6』P559)


郡山メーデー(1957年)(『郡山市史6』P136)


(参考文献〉

『郡山市史6』・『郡山の歴史』(平成16年版)