明治期に成立した地主は、小作人に土地を貸し与え、小作料を徴収していた。この地主制からの解放を行ったのが農地改革である。戦後、わが国の農政にとって画期的なこの農地改革は、アメリカ占領政策の一環として行われ、1946(昭和21)年2月から1950(昭和25)年にかけて、第1次、第2次に分けて行われた。
終戦当時の郡山市と後に合併する関係町村の自作・小作の田畑総数は、1万6,129町5反歩あった。このうち、田は自作地4,038町1反歩、小作地は5,834町歩。畑は自作地4,061町4反歩で小作地2,196町歩。また、田の小作地面積が比較的多いところは、日和田町、喜久田村、片平村であった。
農地改革は、政府が地主から小作地を買い上げて小作人に売り渡すものである。郡山市の1948年の土地買収は、244町8反歩のうち105町余で、小作人に売り渡された農地は、104町8反歩余、490筆(区画)あった。
改革は、郡山・富田・大槻・岩江の4地区で行われ、自作農創設特別措置法による買収と売渡しの面積は、4地区で買収面積が3,643町9反歩、件数は5万1,252筆に上っている。このようにして買収された土地・宅地・建物は小作人に売り渡され、その農地は1,668町歩で、買収金は722万9,486円であった。つまり、1,668町が地主の手から解放されたことになる。郡山市内には35町歩以上の大地主が6人いたが、その所有面積が大きく減少した。
このように、農地改革は小作地をその小作人の自作地としたが、小作地の面積は1万8,331町歩で、このうち改革によって自作農となった面積は、5,485町6反歩であった。自作地となった面積が総面積に比して各町村で多いのは、穂積・三和・富田・片平の各村で、自作農となった面積が少ないのは、湖南や田村郡、守山地方などで、これは地主的土地所有の集積が少なく、自作地の多かったことによるものである。
また、この改革によって小作人が自作農になったといっても、全部の小作人が解放されたわけではなく、残った小作人は金納小作料を払って耕作していた。しかし、小作料が低額となったので改革以前よりは改善された。
農地改革後、郡山市の各地区の農地について田畑の土壌改良、用水路・農道・溜池(ためいけ)などの農業用施設の改善を行った。特に、1947年から始まった国営新安積疏水の工事は1963年に完了し、郡山市の西部・逢瀬・三穂田・安積などの地域の農業水利は大いに改良された。
工場名 | 現在工員数 | 終戦時工員数 | 将来雇入 | 主要製品 | 月産 | 資材入手 | 終戦時比給料 | 経営状態 |
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日東第一 | 人 950 |
人 450 |
人 現状維持 |
絹紡糸 | 350俵 | 配給及地方買入 | 4~7倍 | 一進一退 |
日東第二 | 1350 | 600 | 大増員 | 絹紡織・絹紡糸・綿紡糸・ガラス・織物 | 配給及地方買入 | 4倍以上 | 隆盛 | |
日東富久山 | 1000 | 2500 | 増員 | ステーブル・ファイバー | 150t | 順調 | 5倍以上 | 飛興 |
耐火煉瓦 | 70t | |||||||
ガラスせんい | 13t | |||||||
コップ | 5万個 | |||||||
日東丸研 | 96 | 30 | 増員 | ガラスせんい | 600kg | 配給及市販物 | 4倍 | 普通 |
片倉製糸 | 450 | 400 | 増員 | 生糸 | 2,500貫 | 配給及地方買入 | 3倍 | 資金問題で困難 |
保土谷 | 437 | 2500 | 当分現状維持 | 薬品・農薬・染料・ガラス瓶 | 各5tずつ | 困難 | 約5倍 | 現在赤字 |
東北アルミ | 77 | 800 | 現状維持 | 農機器具・電気工事・注射液 | 副資材・コークス入手難 | 3倍 | 現在生産停止状態 | |
日本化学 | 211 | 1200 | 増員見込 | 黄燐・赤燐 | 30t | 燐砿全く入手難・石炭不足 | 5倍 | 増産せねば赤字 |
カセイカリ | 30t | |||||||
肥料 | 230t | |||||||
東北工業 | 60 | 5月発足 | 現状維持 | 農機具・文房具 | 1万以上 | 鉄板不足
ジュラルミン |
5倍 | 困難 |
浜津鉄工 | 130 | 300 | 現状維持 | 農機類 | 230万 | ストック | 6倍 | 普通 |
(『郡山市史6』P80)