アジア・太平洋戦争中の郡山の各工場は、その多くが軍需産業に変わり、空襲によって爆撃を受けた。終戦後の郡山市民は、破壊されたこれら工場の復興に取り組み、平和産業に変わろうとしていた。
郡山市は、1946(昭和21)年に国から戦災復興都市の指定を受けて、工場地帯の整備を進めた。1952年には工場誘致(ゆうち)条例を設け、工場の誘致をはかった。また、郡山工業地区開発計画を立て、新しい国道4号線の幅員拡張(ふくいんかくちょう)と舗装整備(ほそうせいび)、未利用資源の開発、工業用水の確保、工場用地の造成をめざした。
工場の中には、戦時中、軍需生産のため多くの労働者が従事していたが、戦後人員整理が行われ従業員が減少していた所もあった。従業員が極度に減少した工場は、保土谷化学・日東富久山工場・日本化学・浜津鉄工場・東北振興アルミニューム工場などで、なかでも保土谷工場は、終戦時に2,500人いた従業員が400人余となった。
また、中島飛行機・三菱電機・日東紡績富久山・浜津鉄工場郡山は、アメリカ軍の賠償(ばいしょう)工場に指定されて、賠償物資や見返り物資の生産と、二重、三重の負担を強いられ、従業員数の減少に伴い不安定な時期があった。しかし、1950年の朝鮮戦争を契機とした、いわゆる特需景気が郡山の工業にも影響を及ぼし、日東紡績郡山第2工場では1,500人の従業員を昼夜2交代のフル操業とするなど、生産が需要に追いつけない状態となった。
戦後の生産額の状況をみると、1948年に出荷額が多いのは、化学・繊維・木材・木製品・衣服・機械・食料・鉄鋼・ガラス・電気器具・輸送機械の順で、その総額は13億円だったが、1953年には、繊維・化学・食料・木材・家具・機械などと順位が変わり、総額は63億円と、この5年間で50億円の増加となっている。