戦時中、あらゆる生活物資は国により統制されていた。また、挙国一致(きょこくいっち)の国民意識と政府の統制力が保たれていたため、かろうじて公定価格が維持され、過度の物価高騰(こうとう)は抑えられていた。しかし、終戦を契機に政府の統制力は喪失(そうしつ)した。1946年の物価統制令では、米や麦などは統制品とされ携帯禁止となったが、生活状態が悪化してくると、こうした法の裏をくぐって統制品の不正流通が行われた。これを闇(やみ)物資といい、専門に扱う業者を闇商人と呼んだ。米1升の闇価格は、1944年に約10円であったものが、1945年には約35円となった。しかし、経済の復興とともに闇価格もしだいに落ち着き、公定価格との差が縮まってきた。
戦中、戦後と物資不足と統制経済下にあった商業界は、統制解除の傾向により、ようやく活動が活発化してきた。市制25周年にあたる1949年には、商業界が一体となって産業文化博覧会を実施し、丸伊デパートも郡山デパートとして再開した。このころ市内には、屋台の「きんつば焼」や「焼芋屋」の姿がみられ、平和なムードがよみがえった。
1951年から、各家庭で地域別に指定をうけていた米屋は自由登録制となった。商業組織は、株式・合名・合資・有限・組合などの組織によるものが多くなり、また、専門店会・優良店会・信用店会などが生まれた。郡山市、商工会議所が協力して商店街振興に努め、桜まつり、采女(うねめ)まつり、七夕装飾コンクール、花火大会などが催され、郡山の商店街は活気を見せてきた。
(仲村哲郎)
(参考文献〉
『郡山市史6』・『郡山の歴史』(平成16年版)