1 新しい教育

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 戦後の新教育制度は六三制といわれる義務教育として1947(昭和22)年に実施された。六三制の実施で問題となったのは中学校の新設であった。財政難のなか、とりあえず小学校に付設される形で金透、赤木、橘、芳山、桃見台に新設された。市内で最初の独立した校舎は郡山第一中学校であった。

 教育内容においては新しい民主教育の研究実践(じっせん)が積極的に行われた。金透小学校の教育研究の実践は「新しい学校」「新しい教室」「新しい子供」として出版され全国的に注目された。


金透小学校で出版された「新しい学校」
「新しい教室」「新しい子供」

 またPTAという父母と教師の会が誕生し教育環境の整備、充実に貢献した。また、より民主的な教育を実施するために教育委員会制度が生まれ、1952年10月に最初の教育委員の選挙が行われた。しかし1956年からは任命制に変わった。

 1951年に実施された小中学校の学力一斉テストを機に学力格差が市民の関心をよび学力向上が教育の重要課題になった。

 1965(昭和40)年、周辺町村を合併して新しい郡山市が誕生した。そこで市教育委員会は郡山市総合教育基本計画を策定し、教育の研究調査機関として教育研究所を設置した。義務教育では戦後のベビーブームにともなう小中学生の激増への対処が問題になった。そのため小中学校の増改築、過密緩和(かんわ)のための小中学校の新築が行われた。

 高等教育では安積中学校が県立安積高校、安積高等女学校が県立安積女子高校に、淑徳女子校が県立郡山女子高校になった。郡山商工学校、郡山第二高等女学校、郡山訓盲学校も県立学校に移管された。

 新制大学としては1947年4月、日本大学専門部工科が開校、49年4月、日本大学第二工学部となり、66年に日本大学工学部となった。また47年4月、郡山女子専門学院が関口富佐によって開校され、50年4月、郡山女子短期大学になった。66年、4年制の郡山女子大学が開学した。