郡山市は交通の要路として、東北本線、磐越東・西線、水郡線の開通で発展を続けてきたが、その中心である郡山駅は、戦時中3度の空襲で大きな被害を受けたので、1951(昭和26)年に駅舎の大改築が行われた。その後、郡山駅の乗降者数・貨物取扱量は、年々増加の一途をたどり、1960(昭和35)年の乗降客数は、乗車・降車ともに430万人台、貨物は発送が46万トン、到着が81万トンで、貨物輸送量東北第1位の成績となり、全国でも20位にランクされた。こうしたなかで、貨物操車場の建設がとりあげられ、1965年6月、安積町に東洋一の操車場が完成し、貨物輸送の基地としての役割を果たすことになった。
東北本線白河―福島間の電化工事は1960年に完了し、複線化はやや遅れて1964年に開通した。この複線電化開通により、急行・特急が増発され、1945年には8時間かかった郡山―上野間が3時間を切るようになり、東京も日帰りができるようになった。
道路については、一級国道4号線の舗装がはじまり、1958年には、郡山―須賀川間が完成、1963年には福島県内実延長111㎞の舗装が完了した。また、郡山のメインストリートであるさくら通り線は、1962年から数年をかけて拡張され、同時に土地区画整理も行われた。
交通機関のなかでは、自動車の発達がめざましかった。郡山市の自動車数の推移をみると、1948年にはわずか175台であったが、1956年には1,139台となり、1968年には、軽自動車・乗合自動車・貨物自動車などを含めて4万5,000台となった。
(仲村哲郎)
参考文献〉
『郡山市史6』・『郡山の歴史』(平成16年版)