1960(昭和35)年、池田内閣は、日本列島の経済開発を積極的に推進し、国民所得を倍増し、過密弊害(へいがい)を緩和することを重点的な狙いとする「所得倍増計画」を国民の前に示した。企業の地方分散による地方都市の経済開発によって、大都市周辺への大小工場の密集とここで働く従業員の集中により都市機能が限界に達したと評される状況の打開を目指した。同年、この計画に基づいて、自治省が「百万都市建設構想」に基づく「地方開発基幹都市構想」を、建設省が「広域都市建設計画」を、さらに通産省が「工業地域開発構想」を発表した。しかし、これら構想や計画を調整統一する必要に迫られ、国会では「新産業都市建設促進法」の制定をみることになった。
同じ年、郡山市議会は百万都市建設案を決議し、百万都市構想を打ち出した。市開発公社を設立し、工場誘致に備えて、阿武隈川の東に広大な中央工業団地の造成に着手した。翌1961年には、安積郡全域を含む基幹都市建設協議会を結成。さらに翌年、須賀川市をはじめ、安達・田村・岩瀬の一部を含めた2市8町9村による、新産業都市建設促進協議会に発展させた。また民間では、商工会議所を中心に各種400の団体が協力会を結成し、指定獲得のための運動を展開した。
こうした努力が実り、1963年には「常磐・郡山地区」として仮指定され、1964年2月28日に新産業都市としての正式な指定をうけた。