1964(昭和39)年、新産業都市の指定を受けて、郡山は変わった。郡山市の産業構造は、第1図のように1960年から1970年にかけて様変わりした。このうち第二次産業就業者数は、第1表のように約2.27倍に増加、事業所総数も増加し、郡山の工業は大きく発展した。
郡山の工場の数は、1972年頃から大きく増えた。金属工業・機械器具・出版印刷・衣服が増えた。減少した産業は、食料品・繊維製品・木材木工製品などである。言い換えれば、生産用の機械や原材料をつくる生産財生産が増えて、衣食住についての消費財生産が減った。1980(昭和55)年の工場を規模別にみると、300人以上の従業員を持つ工場は、機械器具では三菱電機・日豊通信工業・コパル・東北クラリオン電子・日立太平産業・東北金門の6工場、化学では保土谷化学・日東紡績富久山工場の2工場、繊維は郡山三東スーツ・日東紡績郡山工場、窯業のパラマウント硝子(ガラス)工業、食料品の柏屋で、合計12工場である。このうち、機械工業が半分を占め、東北金門以外の5工場が電機である。また、1,218工場のうち、三分の二にあたる813工場が1~9人の従業員が働く小さい工場である。工場の分布をみると、1966年には工場数の80%が旧市内と富久山に立地していたが、1972年からはこの比率が減少し、新市内の各地区が増加するドーナツ化現象が進行していった。
この時期誘致した企業は53社にのぼるが、その中には、コパル・森永乳業・山水電気・日瀝化学工業・日立製作所・日本ビクター・連合製紙・松下電工・武田薬品等の上場企業や従業員100人以上を雇用する日本パーオキサイド・兼松電子・大光ブロンズ・楢崎造船・仙台コカコーラボトリング・リバースチールといった中堅優良企業があった。
また、工業団地の造成も進んだ。新産業都市指定以来誘致された50社の企業が操業し、郡山最大の工業団地となった中央工業団地を中心に、北部工業団地・西部第二工業団地などの団地が稼働した。
さらに、主に市街地にある中小企業を郊外に集団移転させるとともに、共同事業を行って近代化・合理化を推進するという政府の中小企業高度化事業と市内の中小企業者の願いが結んで、中小企業団地が生まれた。郡山木工団地・郡山鉄工団地・郡山食品工業団地といった工業部門と、南東北総合卸センター・郡山トラックセンターの流通部門との5つの団地ができた。これらは、郡山商工会議所が建設計画を指導し、郡山市も用地買収等を積極的に援助してできたものだった。
年次 | 第2次産業 | 第3次産業 | ||
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増加率 | 増加率 | |||
1960 | 19,187 | 100 | 35,806 | 100 |
1965 | 23,646 | 123 | 43,596 | 121 |
1970 | 43,596 | 227 | 56,373 | 157 |
(『郡山市史6』P528)