1 市政の推移と市民運動

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 新産業都市指定、町村合併による新郡山市誕生後最初の市長選は、1965(昭和40)年5月16日に行われた。立候補した旧郡山市の市長である秀瀬日吉は、新産都市指定と町村合併に成功した実績と、工場誘致・道路網(もう)の整備・住宅団地の造成などを公約して当選し、次の1969年の選挙でも当選した。さらに1973年の選挙では「清潔な心が築く真の市政」「経験で築いてみせる豊かな暮らし」を訴えて当選し、1977年3月まで、旧郡山市で2期、新郡山市で3期、合計5期20年市長職をつとめた。

 合併の際、新市長選は行なうが市町村会議員は合併後2ヵ年現員現給で残すことが条件となっていた。郡山市は1965年5月に安積郡10ヵ町村と合併、その後8月1日に中田村・西田村を編入合併し、合併前36人であった議員数は、5月合併で239人、8月合併で276人となり、日本一のマンモス市会となった。この人数は当時の参議院議員の定数250人をも上回り、諸費用は1年で3億円とも言われた。1965年6月1日に新郡山市の市議会が公会堂を改装して開催された。この後市議会では、新議長の選出問題、新市議の報酬問題、県営の公共施設建築についての出県陳情などを行った。

 1967年4月、合併後初の市議選が行われた。276人から44人に定員が減り、各選挙区の定員は旧郡山市22人、富久山町4人、田村町3人、熱海町・安積町・日和田町・湖南町・中田町各2人、喜久田町・三穂田町・片平町・逢瀬町・西田町は各1人とされた。

 一方、1960年代の高度経済成長は、単に経済や社会の変化にとどまらず、政治の面にも大きな変化をもたらした。その一つが「地方分権」であり、市民の政治・行政への積極的な参加の必要性が叫ばれはじめた。このような機運を背景に、秀瀬市長時代には、地区住民の声を聞くとして、支所単位で「地区市政懇談会」、地区単位では町内会長との「市政懇談会」が実施された。なお、町内会などの組織状況は、1977年旧郡山267、新市域を含めて607あった(1町内当り平均世帯数は115.1、町内会への加入率は90.7%)。

 市民運動としては、地方文化の見直しが盛んになり、1979年に「郡山に美術館をつくる会」の発足、県立美術館の郡山への誘致運動がおこった。また、全国各地で行政施設の建設をめぐって住民運動が頻発したが、1975年から始まる石筵(いしむしろ)地区への県食肉流通センター建設に対する反対運動が発生し、計画を白紙に戻す結果になった。

第1表 郡山市長選結果(1965年~1973年)
期日 得票 候補者 投票率
1965.5.16 52,799 秀瀬日吉

75.94
30,018 石川六郎
2,079 遠藤雄蔵
1969.4.19 65,698 秀瀬日吉 58.60
14,149 柳内留吉
1973.4.15 55,993 秀瀬日吉 80.53
48,314 高田秀二
18,768 鈴木孝二
4,277 瀬谷房芳

(郡山市選挙管理委員会資料より)


マンモス市議会(1965年)(『郡山市史6』P519)