第二次安倍内閣は、野党の自民党が民主党政権を批判し、2012(平成24)年12月の総選挙で圧勝して、政権交代によって誕生した政権だった。そのため、安倍首相はたびたび「悪夢の民主党政権」と呼んで、民主党政権期の日米同盟の揺らぎ、長引くデフレ経済、日中関係の悪化を解決しようとした。また、民主党政権から引き継いだ課題は、東日本大震災からの復興、中国の大国化と海洋進出への対応、少子高齢化と人口減少対策などだった。
また、安倍内閣は2006(平成18)~2007(平成19)年の第一次内閣が短期で退陣してから5年後に復活した政権でもあった。そのため、過去の失敗から教訓を学び、そのやり残し課題を実現しようとした。第一次内閣は、防衛庁の省への昇格、憲法改正時の国民投票法の制定、教育基本法の改正(愛国心)で、憲法改正の準備を進めた。しかし、国民が望んでいた景気回復や社会保障政策に成果を上げられないまま、国民の支持を失ってしまった。安保体制の強化と憲法改正は残された課題となった(牧原出(2016)『安倍一強の謎』朝日新聞出版)。
それで、安倍内閣は、まずアベノミクス=デフレ脱却と景気回復を優先して国民の支持を獲得し、2013(平成25)~14(平成26)年の国政選挙で連勝して安定政権を実現すると、次に安全保障体制の強化に着手した。2015(平成27)年には安保法制をめぐって国論は二分し内閣支持率が低下したが、相対多数の国民はこれらの政策を支持し、安倍内閣は憲政史上最長の7年8ヵ月に及ぶことになった。国民は、日本の長びく経済衰退と国際的地位の低下を克服して、「強い日本」「経済大国」を再興することを支持した。
このような政策の強力な推進と長期政権を実現していく上で、安倍内閣が採用した政治手法は、首相自身による従来の政界の常識を排除した妥協を許さない政局運営だった。党首と首相のリーダーシップと官邸機能の強化は、1990年代以来の政治行政改革の完成形態でもあった。その政局運営の特徴は立法府(国会)に対する行政府(官邸・内閣)の優位と、従来自律性や独立性を尊重されてきた諸機関に対する官邸への権力集中だった。
安倍首相は、自民党総裁・首相として党内派閥や閣僚に対して強いリーダーシップを発揮し、また内閣官房と内閣府を強化して、首相の側近や官邸官僚による政策立案と省庁統制を行い、マスメディアに「安倍一強」「官邸政治」と呼ばれる体制を築いた。とりわけ、2014(平成26)年に内閣官房に内閣人事局を設置し、官邸が中央官僚の人事を一手に掌握すると、中央官僚は国民全体の奉仕者や自立した政策専門集団から首相官邸の意向に忖度する政権の手足へと変化した。
また、安倍首相は、もう一つの政治改革の課題だった国会審議の活性化には消極的だった。党首討論は一度も開催せず、重要政策の決定に際しては、国会審議を通じて野党との合意形成に努力したり、国民の声を現場で聞いたりということよりも、有識者会議方式を活用して政府の政策を正当化し、官邸と閣議で政策を決定した(重田園江(2023)「長く延びる影安倍政権が遺したもの」『世界』8月号)。国政選挙では、与野党の政策論争を回避するように公約や解散の意義や時期を設定した。原発ゼロ方針の転換と原発再稼働、消費税の増税延期など、国論を二分してきた問題でそのような運営が顕著だった(後藤謙次(2023)『安倍一強の完成』岩波書店)。2017(平成29)年6月には、野党議員が森友・加計問題解明のため憲法53条に基づいて臨時国会の召集をもとめたのに対して、安倍内閣は3ヵ月間それに応じず、臨時国会を召集すると、その冒頭で衆議院を解散して、国会論議を封じてしまった。同様に、2021(令和3)年7月には、野党議員が新型コロナウイルス予算の審議のため憲法53条に基づいて臨時国会の召集をもとめたのに対して、菅内閣は80日間それに応じず、臨時国会を召集すると、岸田内閣に交代して国会論議を封じてしまった(『朝日新聞』2023年10月9日「臨時国会召集内閣の義務」)。
安倍内閣は、日銀総裁、法制局長官、NHK会長などの人事で、従来の人事慣行に介入して政権の意向に沿う人物を任命した。また、安倍首相があるテレビ番組の内容を公然と攻撃したことが契機で、2015(平成27)年には安倍内閣は放送法の解釈を変更し、政府の検閲の禁止と放送局の番組編成の自由を保障するための「政治的公正」を、政府が一つの番組の内容に介入できる根拠に転用した。後継の菅政権では、学術会議の委員選考で推薦名簿の一部委員候補に対して任命を拒否した。