(1) 郡山の鯉食文化と「鯉に恋する郡山プロジェクト」

 2015(平成27)年の郡山市の養殖鯉の生産量は、895t。これは、福島県全体の生産量の8割にあたり、市町村別では、全国第1位となっている(郡山市農林部園芸畜産振興課(2017)『KOI KOI magazine vol.01』)。しかし、第1位の生産地ではあったものの消費地ではなかったことから、2015(平成27)年、郡山市では、園芸畜産振興課に「鯉係」を設置し、郡山市と県南鯉養殖漁業協同組合が連携して「鯉に恋する郡山プロジェクト」を始動することとなった。鯉食文化の歴史を守り、そのおいしさを全国に広げ、そして新たな食文化の創造を目指すこととした(郡山市(2023)『鯉に恋する郡山プロジェクト』<http//koriyama-koikoi.com> 2023.9.3参照)。

 福島県の中通り地方に位置する郡山市は、江戸時代には奥州街道の宿場町として、明治以降は安積開拓による水田地帯として発展した町である。明治時代に入り、安積疏水が完成すると多くの開拓民が流入し、肥沃な土地へと生まれ変わった。郡山市に鯉を食べる文化が根付いたのも、疏水の恩恵を受け始めた明治期以降のことである。鯉料理は、その後、大正~昭和を通じて庶民の暮らしを彩った。鯉料理が食膳にのぼるのは仏事や慶事などハレの日の食事であり、とりわけ正月のおせち料理には欠かせず、叩きごぼう、黒豆、ゆず巻ごぼう、いかにんじんなどと並べて、銘々のお皿に鯉料理がのぼった。主役は鯉のうま煮、その隣に鯉の洗い、そしてごはん、鯉こくが、安積、三穂田など郡山市の西側に位置する地域では定番だったという(郡山市農林部園芸畜産振興課(2018)『KOI KOI magazine vol.02』)。

 奥羽山地を掘り抜いて、はるか西方の猪苗代から安積原野に一本の水路を拓く。延長130kmに渡る「安積疏水」は、今日の郡山発展の礎ともなった「安積開拓・安積開さく事業」によるもので明治維新後に職を失った武士の救済と殖産興業のための国営事業として計画され、原野を潤して郡山一帯の開拓に寄与した。1879(明治12)年に始まった「安積開拓・安積開さく事業」は、のべ85万人の労働力と莫大な国家予算を費やして、3年後の1882(明治15)年に完遂された。

 全国屈指の出荷量(市町村別)を誇る養殖鯉の歴史も、ちょうどこの頃から始まる。今のように海産物が手軽に買えなかった内陸部では、川や池などの淡水で育つ「鯉」が重宝されていた。江戸時代までは、鯛に勝る高級魚でもあり、滅多に口にできるものではなかったという。幸いにも当時の桑野村では養蚕を営んでおり、鯉の餌となる蚕の蛹が豊富に入手できた。そこに安積疏水の完成により使われなくなった灌漑用の溜池を活用し、鯉の養殖が盛んになった。ミネラル分を多く含んだ猪苗代湖の水で育てた鯉は、身は瑞々しい桜色で、食感、脂ののりとも申し分なく、どんな料理にもよく合う。昔から郷土食としている会津地方はもちろん、今日では東北各地や関東甲信越へも出荷されている。郡山の特産品となった養殖鯉は、「福島の鯉」として全国一の高値で取引されるようになった。しかし一方で、食生活の変化により鯉料理を出す家庭や飲食店が減り、地元への出荷量は激減し、そこに追い打ちをかけたのが2011(平成23)年3月に起きた東日本大震災である。

 震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故が、県内の養殖鯉に大打撃を与えた。天然鯉の出荷停止を受けて生産量は前年の3分の2まで落ち込み、価格も暴落した。市内の養鯉業者は、安積疏水の清流を引いた生簀で泥などを吐き出させる養殖期間を延ばし、全出荷分について放射線量の検査を行うことにした。そうした努力から、ようやく立ち直り始めてきた郡山の養殖鯉。2015(平成27)年に立ち上げた「鯉に恋する郡山プロジェクト」では、「郡山さくら鯉」という新ブランドのもと、“良品だけが持つ本物の味”で再出発を目指したのである。(郡山市農林部園芸畜産振興課(2017)『KOI KOI magazine vol.01』)

 2017(平成29)年からは、「鯉食キャンペーン」をスタートさせ、県内外の飲食店による鯉料理が考案された。開始当初3店舗しかなかった料理店が、最大91店舗が参加するなど、発展を見せている。また、学校給食にも食材として提供する案が出され、2020(令和2)年には、全小中学校に84,218食が提供されている。未来を担う子どもたちが「郡山の鯉」を食することで郡山の食文化として継承していくことに繋がることと思う。新たな食文化として発展していくことを期待したい。