ここで低湿地の中央部にある池沼跡の成因について、概観してみよう。なお、以下に列記する沼の名称は、歴史的名称ではなく、中川水系農業水利調査事務所の名称にしたがったものである。
大相模沼 瓦曾根の元荒川右岸堤付近には、自然堤防の分布がみられないところがある。これは、高水時の溢流水によって洗堀されたためであるが、その際、溢流水の堆積土砂によって堰止められてできたのが大相模沼である。その後、元荒川によって埋積されたが、現在でも沼沢地の形状を一部に残している。
増林沼 自然堤防の発達がいちぢるしい古利根川と元荒川の合流点において、両者の堆積作用を受けて、湛水排出が滞り池沼化した。新方堀の開削によって干拓された。
新方沼 松伏溜井から元荒川に注ぐ逆川沿いには、元荒川の自然堤防がある。この自然堤防の背廻しによってつくられたものが新方沼である。その後、新方堀の開削によって干拓された。
大袋沼 元荒川は、大袋の〆切(しめきり)地先から大袋駅付近にかけて、大きく蛇行していた。また古利根川も、平方の南で弓なりに曲流していた。このため、上間久里地先の水田はかなりせばめられ、湛水しやすい地勢となっていた。大袋沼はこのようなところにできたものである。なお干拓の経過は、両川からの溢流水の堆積作用によって、自然に埋積されたようである。
出羽沼 元荒川と綾瀬川の自然堤防から遠く離れ、いわば埋め残されてできたものである。寛永年間(一六二四~一六四四)以降の、出羽堀の開削によって干拓された。
新和沼 綾瀬川の自然堤防は、新和・荻島を径て、元荒川に達している。その結果、堤防の背廻しによって、水深が深まり池沼化した。この沼は成因こそ綾瀬川だが、干拓過程をみると、野島や南荻島の自然堤防の形成を指摘するまでもなく、元荒川の堆積作用を多分に受けている。
野中沼 元荒川と南荻島の自然堤防に囲まれてできた、越谷で最も小さい池沼である。小沼でかつ元荒川に近接していたため、溢流水により自然に埋積され干拓化した。
池沼の大きさと泥炭層の厚さ(カッコ内)は、大相模沼三・四〇平方キロメートル(八五~一二〇センチメートル)、大袋沼二・一〇平方キロメートル(一〇〇センチメートル)、出羽沼六・五四平方キロメートル(六五~一〇〇センチメートル)である。また、新和沼および野中沼の面積はそれぞれ二・四四平方キロメートル、〇・三四平方キロメートルであるが、泥炭層については、被覆土壌が厚くて検土杖が届かず不明である。泥炭層の生成速度を年一ミリメートルとして、黒泥土層まで含めて計算すると、江戸時代に新田として開発される以前に、約一〇〇〇年以上の長期間にわたって沼地として推移してきたものが多いことが知られる。なお、後背低湿地は、地形的にも土壌的にも排水性が悪く、一般に農業生産力の低い水田地域となっている。近年土地基盤整備が進み、越谷地方でも、水田地域の田面高の場所的ちがいはだいぶすくなくなった。しかし、一見平坦にみえる水田地形も、土壌構造のちがいは昔ながらに現存していることを忘れてはならない。