土壌断面

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越谷地方の微地形発達の過程を知るうえで、最も貴重な手がかりとなる土壌断面の理解は、同時に、農業あるいは都市的土地利用のうえからも、たいへん重要なことがらである。以下、市域の水田の土壌断面について、地区別に概観してみよう(第7図)。

第7図 越谷地方の土壌断面(中川水系農業水利調査事務所資料より作成)

 まず、荻島地区だが、この地域の土性は大きく二つに分けることができる。ひとつは、岩槻市と境を接する広い水田地域にみられる、上部が粘土質で下部が泥炭質の土壌である。ここは、元荒川の自然堤防と綾瀬川の自然堤防によって囲い込まれた、いわゆる新和沼跡である。中心部では、地下七五センチメートルが泥炭層となり、この上に厚さ五センチメートルの埴土と七〇センチメートルの埴壌土がのっている。なお泥炭層は、西の部分では分解が進み、東の部分では遅れているといわれる。そこでは泥炭土はみられず、概してうすい埴壌土と厚い埴土からなる粘土質の土壌によって、大部分が占められている。

 出羽地区も、綾瀬川と元荒川にはさまれたかつての池沼跡で、広域にわたって泥炭質の土壌が分布している。このうち北部一帯の泥炭は、壌土または埴壌土の下にこれと混じり合って存在している。南部一帯は壌土はみられず、およそ三五センチメートルの厚さで埴壌土、埴土とつづき、その下が泥炭層となる。分解は一般に進んでいない。このほか、綾瀬川沿いに粘土質土壌のみからなる部分があるが、この土壌も壌土はうすく一〇センチメートル以内で、その下は埴土となっている。

 大相模・川柳地区のうち、瓦曾根付近には、元荒川の氾濫の影響により八五センチメール以下に砂壌土、九五センチメートル以下に砂土がみられ、上部は埴壌土と埴土が被覆している。また、往古、綾瀬川は現在の東武線新田駅付近で乱流したため、その河道筋には砂質土壌が堆積している。上流部では砂質の層は浅く四〇センチメートル以下にあり、中流部で七〇センチメートル、下流部で九五センチメートル以下と次第に深くなる。砂質層の上部はすべて粘土質で、壌土はすくなく、埴壌土も一〇センチメートルをでない。概して綾瀬川下流域の土壌断面は、西部ではかつての池沼との関係から泥炭質土壌が多く、東部では粘土質の土壌がめだっている。なお八条用水と中川本川との間の水田にも、二〇~三〇センチメートルの壌土もしくは埴壌土の下に、黒泥土または泥炭土がみられる。

 増林地区も、往古の沼沢地をしのばせる土壌断面を示し、最上層から壌土、埴壌土、埴土の順に配列し、下部は黒泥土または泥炭土となっている。これはいずれも沼地の縁辺部とおぼしい地点の断面であるが、おそらく中心部には泥炭層が存在するものとみられる。

 新方・桜井地区のうち、日光街道以東の新方川(千間堀)流域の水田は、一部の泥炭質土壌地域を除いて、大部分が粘土質の土壌からなっている。すなわち泥炭質土壌を有する地点は、旧桜井村役場の東方と逆川沿いで、一〇センチメートル余の壌土および埴壌土層と、六〇センチメートル余の埴土層の下に、泥炭まじり壌土と黒泥土もしくは泥炭土が続いている。その他のところでは、一般に三五センチメートル内外から下に埴土が厚く存在し、上部は壌土または埴壌土が厚く堆積している。

 大袋地区では、新川に沿って三五センチメートルの浅い位置に砂質土壌が分布している。かつての池沼跡といわれる地盤の低いところは、一般に泥炭質土壌は五〇センチメートル以下にあり、土性は黒泥土、泥炭土、泥炭とまちまちである。これは非灌漑期における地下水位の差によって、分解程度が異なるために生じたものといわれている。また、粘土質土壌の地域は壌土、埴壌土とも三〇センチメートル以内の薄層で、その下に厚い埴土が続き、一部では最下層に粘土層を置くところもある。