関東地方の地形のおいたち

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越谷地方の地形のおいたちを調べるために、広く関東地方の地形のおいたちからながめてみよう。越谷地方でもっとも古い地層として確認されているものは、冒頭で述べた春日部市豊春の層序試錐であって、この時、中生代の地質がでているので第6・7表の地質年代を参照しながらこの時期からながめてみよう。

第6表 地質年代
第7表 第四紀地質年代

 地殻変動の時代そして内海と浅い外海の時代を経て新生代の古第三紀にはいると、それまでの海は日本列島から退いていった。こうして中生代以来の日本列島は次第に隆起しひろがっていったが、古第三紀の終り頃には再び地殻変動が起り、古い日本列島は各所で分断され、そこに海が進入していった。新第三紀中新生にも激しい地殻変動の時代が続いた。古い日本列島の割れ目からマグマが噴出し、各地にたくさんの火山の噴出物が積った。関東地方でも南部の山梨、神奈川から南房総にかけての火山物質の多い地層は、この時期のものである。一方、関東北部では火山物質ではなく泥、砂、礫を主とする地層が積った(図a)。

a 新生代中新生初期<br>3000万年前

 そしてそれらの間には海が進入していき、新生代中新世の中頃には暖かい海が関東地方では一番広がった(図b)。

b 新生代中新生中頃<br>2000万年前

 中新世の終りになると、関東地方では冷たい海水の影響が強くなり、泥岩層がたまっていった(図c)。

c 新生代中新世末期<br>1000万年前

 中新世から鮮新生に移る頃には、丹沢から南房総にかけての一帯が隆起し、その北側では海が退いたがまだかなり海は広く、これを古関東海と呼んでいる(図d)。

d 新生代鮮新世<br>(古関東海の時代)<br>500万年前

 この海は西から東へと次第に深くなり、水深は一〇〇~三〇〇メートルで、その沖合では火山灰質の泥がたまり、西の陸地に近い方では砂がひんぱんに運びこまれた(図e)。

e 鮮新世末期<br>(古関東海の時代)

 洪積世にはいると、関東中央から西は陸化し、南では三浦半島が形成された。したがって、関東北東の群馬県桐生付近までは海が残っており、これを古東京湾と呼んでいる(図f)。

f 洪積世初期<br>(古東京湾の時代)

 古東京湾岸沿いには砂礫がたまり、沖合には泥がたまった。こうして関東南東部に成田層群の下部層を形成しながら、海は次第に浅くなっていった。ここで地盤が沈降し海が陸地に向かって広がっていき、これまでより大きな海ができあがったが、その底には主に砂礫がたまり、水流が鈍ると泥がたまっていった。こうして海が埋められていくにつれて、関東西部からの河川が運ぶ砂礫は樹枝状の三角州をつくりながら、この海に進出していった。これら三角州の間には停滞性のくぼみが残され、強内湾性の貝穀などを含む泥が徐々にたまっていった(図g)。

g 洪積世前期

 その後、現東京湾付近では盆状に沈降し始め、海はふたたび深くなり礫は運びこまれなくなった。この東の沖合では、泥が広くたまっていった(図h)。

h 洪積世中期

 海底の東方への撓曲の結果として、堆積物は西に薄く東に厚くなっていき、ついに古東京湾はほとんど埋めつくされて、大部分が浅い淡水性の池沼に変った。この池沼には、多量の火山灰がたまっていった。ここで地盤が隆起し、東に開いていた古東京湾の代りに、南につながるごく浅い東京湾の前身ができあがった。これには、海水面の下降がともなったかもしれない。それとともに利根川系が南進し、東進する荒川系と合流して、大きな扇状地をつくって砂礫を広げていった。やがて地盤が多少沈降し、扇状地の東部は湿地性の氾濫原になり、いろいろの火山灰が堆積した(図i)。

i 洪積世後期

 ここでふたたび地盤の隆起があり、利根川系の河川は荒川系の東側を平行して東京湾へ注いでいたようで、どちらも河口付近には礫を堆積させていない。引続き多少地盤が沈降し、これに伴なって火山灰質の泥層の堆積がおこった。ついで地盤が二〇メートル前後隆起し、それとともに箱根火山、古富士火山など古期の火山の噴火による大量の火山灰が降下し、地形の高低を問わず一面に堆積し、武蔵野ローム層が生成された(図j)。

j 洪積世後期<br>(武蔵野ローム層生成)

 これによって東京湾の大部分は陸地になり、海岸線は浦賀水道北端まで一気に退いたものと推定される。この隆起にともない、利根川系、荒川系それに多摩川系の水を集めた大河は、新しい河谷を刻みこんで砂礫を運び始めた。ただ利根川系下流の河原では、砂が主で礫は少なかったようである。ここで地盤は、海水面の下降をも含めて数十メートルにおよぶ相対的大隆起を起こした。そこで各河川は、いっせいに侵蝕力を回復して谷を刻み始めた。このとき古富士火山の火山灰が一面に堆積して、立川ローム層が形成された(図k)(第14図)。

k 洪積世末期<br>(立川ローム層生成)
第14図 関東ローム降灰後の変遷<br>(埼玉県企画部「埼玉県南東部地帯の地盤構造」)

 現東京湾の出口にあたる浦賀水道の海底を調べると、その北側で三浦半島寄りに河跡が存在し、これを古東京川と呼んでいる。南側には海底谷が存在し、これを東京海底谷と呼んでいる。古東京川は、その本流とみなされるかつての利根川系の埋没谷であって、この時期に生成されたものといえる(図L)。

L 洪積世末期<br>(古来享川の時代)

 地質時代の洪積世と沖積世との境界をきめるには、地層の堆積状態や地形とともに、気候の極端な変化も決め手の一つとなる。この時期の寒い例としては、江古田の植物化石層がある。東京都中野区江古田の植物化石を識別すると、カラマツ、トウヒ、チョウセンゴヨウなどの亜高山性の松柏科植物であって、これは現在の日本の気候からすれば、海抜一五〇〇メートル前後の高山にあたり、かなり気温が低かったといえよう。幾回かのC14測定によれば、この植物化石は一万年より古い時期とされ、世界的にはウルム氷期末である。

 これに対して暖かい例としては、千葉県館山市の沼のサンゴ層がある。この造礁サンゴと貝殻の調査から、トゲキクメイシ、キクメイシ、スルバチサンゴなど現在中部日本以南の暖かい海に生きるものがありこの年代は約九〇〇〇年前とされている。よって一万年前をもって、洪積世と沖積世との境界とみなしている。