自然堤防の発達と湖沼の形成

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越谷地方の地形的特色のひとつである池沼跡地群(第15図、第8表)は、すでに述べたような潮止、二合半の両沼をはじめとして、文献ならびに土壌調査の結果判明したものだけでも九ヵ所におよんでいる。これを成因別にみると、沿岸砂堆によるもの(潮止沼・二合半沼)と自然堤防の背廻しによるもの(出羽沼・野中沼・大相模沼・増林沼・新方沼・大袋沼・新和沼)とに大別される。これらの湖沼群は、海退によって陸化した越谷地方の低平な地形に、自然堤防の形成する微高地とならんで、後背湿地の形成をもって微地形上の特色をもたらすもとになっている。しかもこの微地形上の特色は、土地利用をとおして、古代から現在に至るまでの人びとの生活に大きなかかわりをもつものであった。

第15図 中川水系下流域の池沼跡地
第8表 中川水系下流域の池沼跡地
地盤高 黒泥土層までの深さ 泥炭層の厚さ 地盤高 黒泥土層までの深さ 泥炭層の厚さ
大相模沼 3.2~4.0 0.30 0.70 柏崎沼 5.0~6.0 0.15~0.30 0.20~1.00
増林沼 3.5~4.0 0.50~0.80 0.75 谷原沼 5.5~6.0 0.30~0.40 1.05~1.20
新方沼 4.0~4.5 0.75~1.00 不明 魚沼 4.0~5.0 0.15~0.45 1.00~1.60
大袋沼 5.0~5.5 0.20~0.40 1.30 永沼 4.5~5.0 0.40 不明
出羽沼 3.5~4.5 0.10~0.35 0.65~1.00 金崎沼 不明 不明 不明
新和沼 3.5~4.5 0.35~0.75 不明 桜井沼 5.5~6.5 0.44~0.55 0.25~0.35
野中沼 3.5~4.5 不明 不明 不動院沼 4.5~5.5 0.50 不明
瀬崎沼 5.0~5.5 0.50 0.45 小谷堀沼 2.5 0.40 0.70
柳島沼 2.0~2.5 0.10~0.15 0.25 潮止沼 2.0~3.0 0.45 0.30~0.70
金右エ門沼 3.0~3.5 0.20~0.30 0.15~0.80 水元沼 1.0~1.5 0.40~0.45 0.30~0.45
仁右エ門沼 4.0~4.5 0.20~1.00 0.60~0.80 二合半上沼 2.0~2.5 0.20~0.45 0.15~0.65
蓮沼沼 4.5~5.0 0.75 0.25以上 二合半下沼 1.5~3.0 0.40~1.00 0.10~1.30
江戸袋沼 4.5~5.0 不明 不明 松伏沼 3.0~4.0 0.10~0.35 不明

中川水系農業水利調査事務所資料(単位メートル)

 ところで、一般的にいって泥炭層の形成は、自然堤防の成長と安定を待って始まる。つまり、自然堤防の成長は河川が平衡状態に達するまで続き、その間は後背地への土砂の供給が行なわれるであろうから、独立水域になったとはいえ、泥炭の堆積に至るほどの安定性は得られないわけである。むしろ、背廻し現象の強化によって排水口がふさがれるから、河川溢流水によって湛水量は増大することが考えられる。当然、ヨシ、マコモなどの生育を許さない状態になることが多いといえる。以上のことから、泥炭堆積の開始時期が大まかに推定できれば、古利根川、元荒川、綾瀬川等の越谷市域を貫流する諸河川の安定期、すなわち、人間活動の場としての越谷地方の自然的条件の成熟期も、同時に推定することが可能となるわけである。

 概括的にいって、古利根川筋の泥炭(黒泥土層も含めて)層の厚みは一二〇センチメートル以上であり、二合半沼や魚沼に至っては、一三〇センチメートルから一八〇センチメートルにおよんでいる。泥炭層の堆積速度を年〇・八ミリメートルから一ミリメートルとして略算すると、二合半沼の場合では、一三〇〇~一六〇〇年間にわたって堆積したことになる。これに江戸時代の新田開拓以降の約三〇〇年を加えると、一六〇〇~一九〇〇年以前の時代に、泥炭の堆積は開始されたものとみてよいだろう。とすれば、元荒川の合流点以下潮止にいたる間の古利根川の河道の安定、すなわち自然堤防の安定化は、それ以前に、ほぼなされていたものと考えることができる。古利根川流域以西では、泥炭層の厚さは一般に七〇~一〇〇ミリメートルぐらいであり、古利根川以東に比較するとやや薄くなっている。ここは、古利根川と元荒川の両川の埋積作用が重合し、したがって、旺盛な自然埋立による池沼の陸化が進行し、ついに江戸時代の新田開発を待たずに、泥炭層の生成が停止したことを示唆するものであろう。なお、綾瀬川以西の伝右衛門沼、金右衛門沼などは、元荒川―綾瀬川間にある出羽沼、柏崎沼などにくらべると、泥炭層ならびにこれを被覆している土壌がいくぶん薄い。このことから泥炭層の形成にかぎっていえば、綾瀬川を元荒川以前の荒川本流とみるより、むしろ以降の派川とみるか、またはごく短期間の本流であったとみるのが、より自然のように考えられる。もちろん、実際には比較的安定流路をとり続けてきたと思われる越谷地方の諸河川にも、若干の流路変更や分支流の存在等が、地形図、航空写真などから認められる。したがって、平衡河川化――自然堤防の成長と安定化――と同時に泥炭堆積を始めたと考えられるものから、その後かなり時間をおいて湖沼形成をみたものまで、各様の成立過程をとっていることが考えられる。これらの点については、河川安定期――人間生活の基盤としての自然条件の成熟――を推定するにあたって、とくに留意すべきことであろう。

 ここで泥炭堆積の分析をとおして、越谷地方の歴史時代以前における、人間生活の基盤としての自然の姿を復元してみると、つぎのように要約することができる。古利根川の河道筋では、一六〇〇~一九〇〇年ほど前(弥生~古墳時代)に人間活動の場として、不完全ながらその可能性を具備しつつあったことが考えられる。元荒川合流点より上流部では、これと同時代ないしそれ以前に、河川の安定化と自然堤防の発達をみたと考えてよいわけだが、それは後述するように、古利根川系ではなく、元荒川系においてのみいえることのようである。もっとも、居住の範囲は狭長、断続的な自然堤防に限られ、多くの後背地は、むしろ河道変更あるいは分流発生等にともなう自然堤防の形成によって沼沢地化され、逆に一層非居住地域(アネクメーネ)を拡大することになっていった。なお、綾瀬川筋が人間活動の場となるのは、元荒川合流点の下流部の古利根川筋や元荒川筋よりは、少なくとも後のことであるとみてよい。

 これまでのところ、越谷地方で発見された遺跡は、七~八世紀ごろのものと推定される見田方遺跡だけである。しかしそれ以前の弥生~古墳時代にかけて、すでに越谷地方が、人間生活の舞台として自然的諸条件を具備しつつあったとみる上記の推論は、縄文末期から弥生時代にかけての古代荒川筋(毛長堀)にあたる、戸田市鍛冶谷附近の自然堤防で発見された、古墳時代前期の方形周溝墓六基の存在からも傍証することができる。さらに藤岡謙二郎氏も、弥生文化が海抜三~五メートルの範囲に集中的に分布することを指摘しているが、越谷地方の低湿地も、二合半と潮止の両沼跡を除けば、他はいずれも三~五・五メートルの間に位置している。このことからも、地盤の変動や河川の堆積力などにおいて、若干の地域差はあるとしても、越谷地方が、当時すでに部分的にせよ、人びとの生活圏となり得ていたことは十分に考えられることである。