越谷周辺の台地には数多くの遺跡があり、その代表的遺跡の分布は第1図のようである。これら遺跡のうちもっとも古い旧石器時代の出土品としては、大宮台地から槍先形尖頭器、有舌尖頭器など僅かに表面採集されているに過ぎない。これらの石器はカーボン測定(C14)によると一万三〇〇〇~一万年前のものといわれ、旧石器時代から縄文時代への過渡期の石器と考えられる。
縄文時代になると遺跡は増大し、沖積低地を望む台地周辺部に数多くみられる。縄文早期にはそれまでの寒かった氷河期が終り、気候が次第に温暖となった。そのため、南にさがっていた海は北進し、現在の海岸線とほぼ同じようになった(第2図)。早期の遺跡は少なく、埼玉県内でも三〇数箇所であって、台地のやや高い所に小規模な住居を構えていた。早期の土器は、巻き上げ法による尖底または丸底の砲弾型をした深鉢が多い。文様は縄文の語源のように、棒に縄を巻きつけて土器面にころがした文様が多く、ほかに、棒の刻みを押しころがした文様と、貝の条痕をつけた文様などがある。
縄文前期になると、海進が急速に進み低地や主な河川は海となり、現在の台地周辺は複雑な海岸線となった(第3図)。この海進の最頂点に達した頃の遺跡としては、栃木県の藤岡貝塚がある。縄文前期の遺跡は県内で七〇を超えており、台地の端に位置している例が多い。このことは、それまでの狩猟採集の生活から漁撈生活に基礎をおくようになったことを意味している。
縄文前期は、地面を三〇~五〇センチメートルほど掘って床面とする竪穴(たてあな)住居が出現した時期であって、早期にくらべ住居は大きくなっている。土器は細い粘土紐を順次輪積みする方法で作り、平底が多くなっている。
縄文中期には、それまで停滞していた海がふたたび海退を始め、この海退はその後の海退のなかでもっとも激しかったという。この海退中の台地上の遺跡は非常に少なく、中期の中頃になって、ふたたび狩猟採集を中心とする生活が始まった。これは海退によってできた低地は、まだ湖沼が多い低湿地だったからであり、反面、台地上は樹木が繁茂し動植物が多かったためであろう。住居址は竪穴式であり、土器は大きな深鉢形であるのが特徴である。文様は粘土紐で蛇を抽象化したものを土器面に付けたものや、部分的に縄文をつけたものが多い。春日部市花積貝塚では住居址近くの貝層の下から、浅く楕円形に掘られた穴の中に、手を胸の上におき足を曲げた姿勢で葬られた男子の人骨が発見されており、すでにこの期において、土葬が行なわれていたことになる。
縄文後期には海退著しく、台地から数キロメートルも遠のいていった(第4図)。しかし、満潮時には低地の奥まで海が広がる程で、とうてい人の住める低地ではなかった。この時期の越谷付近の遺跡としては、北葛飾郡松伏町の栄光院貝塚、同庄和町の神明貝塚があり、いずれも下総台地の西端に位置している。北足立台地では川口市新郷貝塚、岩槻市真福寺貝塚があり、貝も海水産が少なくなり、ヤマトシジミなど淡水産が多くなっている。住居址は、栄光院貝塚でみられるように一般に円形である。生活環境の変化は生活用具にも影響し、石鏃、釣針、土錘、石斧など狩猟用、漁撈用など多種多様になった。土器は薄手で堅緻な深鉢、浅鉢、甕、壺、皿、台付浅鉢など多種になった。文様は磨消縄文(縄文を箆(へら)で削り磨いた)となり、やがて縄文晩期(第5図)には、沈線や刺突文が中心となり、縄文は消えていくのである。また、この時期には土偶(どぐう)が多く、また土製の耳飾りが出現した。土偶は、人物または動物をかたどった土製品で、主に呪術的な偶像として使われたらしい。
昭和四年の春、越谷市と草加市の境を流れる綾瀬川から丸木舟が発見され、現在草加市立新田中学校に保管されている。詳しい出土状態はわからないが、この丸木舟は全長六・〇八メートル、舳先の高さ四五センチメートル。艫は六五センチメートル、舟底の厚さは六センチメートルである。内部はくりぬいてあって、三本の桁が補強用にある。構造上、縄文晩期のものと推定されている。
弥生時代になると海退はさらに進み、一方ではこれに各河川が低地を乱流して土砂を堆積し、それとともに自然堤防がつくられていった。一般に弥生時代の特色は、水田耕作の始まりとその普及であるとされている。すなわち北九州に上陸した稲作は各地に拡大するとともに、青銅器文化をも各地に波及していった。埼玉県内の弥生前期の遺跡の発見例はない。これは西日本を中心に弥生文化が花開いているのに、東日本への普及は遅くそれまでの狩猟採集の生活が続いていたためであろう。
弥生中期になると、県内にもいくつかの遺跡がみえてくる。近くでは岩槻市慈恩寺南遺跡、大宮市大和田本村遺跡、大宮公園内遺跡などがある。住居址は低湿地を近くにひかえた舌状台地沿いにあり、不整形隅丸方形の一辺五メートル前後の竪穴式住居である。炉が床面のほぼ中央に位置しているほか、住居内に食料などの貯蔵穴を備えるようになった。集落は住居址が一〇戸内外であることから、初期の原始的農耕生活の規模がうかがえる。
弥生式土器という名称は、文京区弥生町遺跡の名をとったものである。貯蔵用の壺、煮炊用の甕、食物を盛る高坏、鉢の四つの機能別基本器形からなっており、頸の長い壺形のものが多い。文様は縄文の痕跡をとどめているが、箆(へら)でうつくしく研磨し、しばしば丹が塗られたり彩文をしたものがある。この時代になると、米が主要な食物となったため煮炊用の甕、そして後には米を蒸すための甑(こしき)がつくられるようになった。