弥生時代に始った農耕生活は、鉄器の普及と耕地の拡張、集落農業から単位集団農業への転換、水利土木技術の向上など、いろいろな面で発展し生産量も増大してきた。反面、貧富の差、身分の差、支配者と被支配者などの新しい動きがでてきた。この時代は畿内を中心とした大和朝廷による国内の統一、氏姓をもととする官司制の確立期でもある。大和朝廷の支配者は、その権威と支配力を誇示するために、大規模な古墳を築造した。応神・仁徳の陵墓に代表される雄大な前方後円墳がこれである。この統治機構のなかにくみこまれていったであろう地方の豪族も、これにならって次々と古墳を築造していった。
この古墳築造は、紀元三世紀から七世紀初頭までといわれるが、東日本の埼玉県では、これより遅れ五世紀前半から八世紀初頭までである。このような大きな古墳に先だって、関東を中心に中部、東北では埋葬形式に方形周溝墓が出現している。一メートル内外の溝を方形に墓の周囲にめぐらしたもので、越谷近辺では弥生時代の大宮公園内遺跡、古墳時代初期の北葛飾郡庄和町の権現山遺跡がある。
県内の古墳群には、県内でもっとも早いとされる五世紀はじめの北足立郡桶川町の熊野神社古墳をはじめ、大型古墳に代表される埼玉(さきたま)古墳など七十有余を数えている。越谷周辺では杉戸町目沼古墳群、木野川古墳群、春日部市内牧古墳群、草加市毛長堀古墳群、千葉県流山市東深井古墳群などがある。
これら古墳からは副葬品としての各種の鏡、玉類、刀、馬具、土器のほか埴輪(はにわ)が出土している。古墳時代の住居址は、弥生時代を引き継いで竪穴式であるが、整った隅丸方形をもち、炉から竈(かまど)へと発達したことが特色である。竈は主に北側の壁に設けられ、煙道を外につけることによって、煙を住居内から追放するとともに、床面を広く使用できるようになった。この時期の土器は土師器(はじき)と呼ばれる赤色の素焼土器で、奈良、平安期まで使用されている。