住居址

73~85 / 1301ページ

発掘により住居址壁面、床面など明瞭なものを住居址とし、不明瞭、不正確なものを遺構とした。その結果は、第9図に示すように住居址二、遺構五である。特に二号遺構は、黒色土層や土器の包含層が幾重にもあって、住居址床面を見出すことは困難であった。

第9図 見田方遺跡全体図 Ⅰ,Ⅱ住居址 1,2,3,4,5遺構

 一号住居址(第11図)は、形態を完全に把握できた唯一のものである。床面は不整ではあるが隅丸方形で、長軸はほぼ南北を指して三・二メートル、東西は二・八メートル、深さ約二五センチメートルである。北東隅はゆるやかな弧を描き、外に張出している。そのためか、南西隅が外に向って突出しているような感じを受ける。壁の大半はほぼ垂直にきりこまれているが、南西隅だけはゆるやかな傾斜をしている。柱穴と思われるピット(P)は住居址中央寄りに一箇所、径一二センチメートル、深さ一〇センチメートルの小さなものである。北東寄りに、六三×五五センチメートルの楕円形で厚さ約四七センチメートルの焼土があることから、これが炉と思われる。他地方の遺跡の多くは、五世紀末から六世紀初頭にかけて炉から竈(かまど)へと移行したことと比較すれば、六世紀末より七世紀初頭といわれる本遺跡の住居形体はかなり遅れていよう。このことは、当時の文化の中心である畿内から遠い埼玉の遺跡全般にもいえることであるが、沖積低地という立地条件が加わる本遺跡は、さらに遅れているといってよいだろう。南東隅に南北八五センチメートル、東西九六センチメートル、床面より深さ二五センチメートルのピットがあり、上層部に黒色上、下層部に褐色土がつまっていた。遺物は見られなかったが収獲物を貯蔵する貯蔵穴であろう。床面は灰青色粘土でやや北に傾斜していた。この住居址から用材が発見された。床面上四~一〇センチメートルの高さに長さ二九~六〇センチメートルの木材九本が、いづれも北東―南西の方向を指して平行に倒れていた。そしてこの用材によって割られたであろう土器が下にあったり、また用材の上にのったりしていたことから、この住居址の用材と断定した。遺物は北半分の床面から坏、高坏が出土しているが、煮沸用の長甕などは発見されなかった。住居址周辺からは、完形の壺その他数多くの土器片が出土している。

1号住居址
第11図 1号住居址実測図
1号住居址土器出土状況

 2号住居址(第12図)は、有機質第六黒色土層を掘りこんでつくられている。三・七×二・五メートルの隅丸方形で、床面にはカヤその他の建築用材と思われる炭化物が一面にびっしりと存在していた。南壁近くの床面にはカヤ、ワラと共に板状(二〇×一〇〇センチメートル)の木材が、一部こげた状態で水平にのっていた。その近くには径一〇センチメートルの柱とみられる丸太が、途中から折れて直立した状態になっているなど、住居址用材が数多く残存していた。東北隅に近い北寄りの壁で焼土らしきブロックが、径二〇センチメートルの広さで認められた。これは竈(かまど)のつぶれたものとも思えるが、断定は困難であった。南西隅の床面に完形の長甕形土器が三個体分発見されたが、いずれも口縁部を住居址内に向けていた。

2号住居址
第12図 2号住居址実測図

 一号遺構(第13図)は南北三・四メートル、東西二・九メートル、中央部の深さ二〇センチメートルの浅い落ちこみで、明確なプランはつかめなかった。あるいは不整円形ではなかろうか。中央やや北寄りに径二〇センチメートル、厚さ四センチメートルの焼土が堆積し、それを取り巻くように北から西へかけて幅二〇~四〇センチメートル、高さ一〇センチメートルの黄褐色粘土ブロックがあった。床面は黒色土層におおわれているが、この粘土ブロックはその下の灰青色粘土面上にあることから炉跡と推定できよう。覆土中から土師器小破片、遺構周辺から甕形土器、稜をもつ坏が出土していることから、他の住居址とほぼ同時期のものであろう。

第13図 1号遺構実測図

 二号遺構(第14図)、見田方遺跡の遺構を見出すには、いくつかの黒色土層を掘りひろげなければならない。二号遺構もこの方法によって確認されたものである。この遺構は昭和三十六年の耕地整理によって東西に分断されたもので、両方合わせると径八メートルの円形住居址とみられる。一号遺構と同様に周囲から中央部に向って落ちこみが見られたが、壁面、焼土、灰などは検出できなかった。床面の有機質黒色土層から、長さ三五~一五〇センチメートルの五本の木材が出土し、いずれも南北の方向を示していた。遺構の南東部から四個の坏がまとまって、少し離れて同形の坏一個が発見されている。いずれも、置かれてあったという状態であった。遺構の外東側に大型の壺形土器が直立し、中には土がつまった状態で発見されたが、掘りあげ後小破片に崩れてしまった。遺構内には第14図のA(第14図―1)、B(第14図―2)の二ヵ所に土師器片がまとまって散乱し、いづれも南北方向に伸びていた。

2号遺構大型壺形土器出土状況
二号遺構
第14図 二号遺構実測図
第14図―1
第14図―2

 三号遺構は、有機質第七黒色土層を床面とする隅丸方形で摺鉢状を呈していた。一辺は約二メートル、若干の土器片を北西部で検出したのみで、住居址と認定する有力な遺構、遺物は発見されなかった。

3号遺構

 四号遺構は、有機質第一黒色土層の下二~五センチメートルに第二黒色土層があり、さらにその下に第三黒色泥炭層があった。この第三黒色泥炭層上に、数多くの土器が置かれたとみられる状態で出土した。東南部に黒色土層の落ちこみがあり、この黒色土をはがすと灰があった。この皿状の落ち込みに灰が堆積し、灰の中に小さな骨片が含んでいた。骨片というより粉末に近いもので、どんな動物の骨かは不明である。なおこのくぼみは第四黒色土層以前からあったものと推測される。この遺構から長甕が発見されたが、口縁を北に向けて倒れ、上からの圧力でつぶされていた。なお、遺構直上の耕作土から土器破片数個を発見されている。これは、遺構を横切る溝がいつ頃か掘られた際に掘りあげられたものである。

4号遺構
4号遺構土器出土状況

 五号遺構(第15図、第16図)には、四号遺構発掘の際発見された溝が続いており、この溝で破壊されていた。有機質第一黒色土層の下一~五センチメートルで第二黒色土層があり、この層から坏が多数出土し、その周辺に滑石製小玉が一〇〇×九〇センチメートルの範囲に散乱していた(第15図)。滑石製小玉は五六個、外に滑石製飾玉一個(第41図の38、40)、その南に二個体分の土器があり、土器およびその周辺はうすく火山灰で覆われていた。第三黒色土をはがすと床面状の平らな堅い面が現われ、その周囲には浅い溝がめぐらされていた。周溝は隅丸長方形を呈していたが、柱穴などは見当らなかった。これらから推定すると、平地住居址であったかもしれない。地下水位の高い低湿地での住居は、なおこの時期においてさへも竪穴が掘れず、平地住居をつくったものと考えられる。中央北寄りに甑の破片とその下から甕が出土し、その周囲に黄色のブロックがあったことから竈(かまど)ではないかと推定したが、ブロックは堅い粘土面に密着していないなど謎が多く、竈としての断定はできなかった。

5号遺構
第15図 12ロG土器出土状態(5号遺構)
第16図 12,13 ロ,ハG遺構図(5号遺構)

 つぎに、その他の主な遺構についてみておこう。8ロG調査区(第18図)からは土師器片、須恵器片とともに土玉が出土した。中央部は溝によって攪乱されていた。第二黒色土は8イGからその南の9イGの中心に広がり南東部の灰色粘土層に接していた。9イG調査区(第17図)の遺物は、第二黒色土層上面に散布し須恵器、土師器長甕、紡錘状土錐二個、球状土錐三個および軽石などが出土した。また自然木と思われる棒も散在していたが黒色土の先の灰色粘土層には遺物がなかった。9ロG調査区(第20図)の第二黒色土層は西に向かって傾斜し、遺物はこの層上面に散布していた。長甕を主とする完形品が多く滑石製紡錘車一個(第41図の35)、土錐五個、滑石製勾玉一個が発見されている。10ハG調査区(第19図)の第二黒色土は全面に広がり、中央部のこの層の下には灰色粘土層がやや盛上がっていた。その形状大きさは東西径一・五五メートル、南北一・三五メートルで北側がえぐられたような円形の径五〇センチメートルの炉跡らしきものが存在し、その中には灰がつまっていた。その炉跡らしき中心部から、甕形土器が伏せた状態で発見された。この土器および灰を取除くと、下部には焼土のブロックが検出された。この遺構では炉跡と思われる部分のほかには、住居地の輪廓さえ掴むことは困難であった。10ニG調査区からは、第37図のような大型壺と甑の底部が発見された。

第17図 8イG,9イG遺構図(G内数値はcm)
第18図 8ロG遺構(G内数値はcm)
第19図 8ハG,9ハG,10ハG遺構(G内数値はcm)
第20図 9ロG遺構実測図
10ハG炉跡