土器

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縄文式土器、弥生式土器に続いて古墳時代に入ると土師器が使用されるようになった。土師器は古墳時代から奈良・平安時代まで永く製作された赤褐色ないし茶褐色をした薄手の素焼土器である。土師器は弥生式土器と同様に、ロクロを用いないで巻きあげなどの原始的成形法をとり、表面を箆で磨いたもので、焼成温度は八五〇度C前後である。本遺跡でも見られたように胎土は比較的緻密で中には水簸(すいひ)したのではなかろうかと思われる土器もあった。

 遺跡の編年については、地形、地質、住居址の形体、石器や土器の形式、さらに植物体のカーボン測定(C14)など総合的に行なわれている。一概に土師器といっても時代々々に特徴があり、関東地方における土師器の編年は第4表のようである。

第4表 関東地方の土師器の編年

 東松山市五領遺跡の土師器は前時代の弥生式土器の影響が強く残っており、これに類した土師器を五領式と呼んでいる。東京都狛江市和泉遺跡出土の土師器は手捏(づくね)、輪積み法で焼成やや悪く暗褐色を呈し黒斑を残している。仕上げに箆磨きをしたものがあり、地名をとって和泉式と呼ぶ。千葉県市川市鬼高遺跡から出土した土師器は甕、甑、坩、坏などあり、中には赤色に塗られたものもあり、これに類した土師器を鬼高式と呼び、同市川市須和田遺跡から発掘された土師器を真間式と呼んでいる。

 見田方遺跡の土師器は焼成の良いもの三二個、普通一四個、不良一二個で、紅彩のほどこしてあるもの一〇個、砂粒を含むもの二一個、その他石英、雲母などを含んでいるものもあった。なかには胎土が粗雑なものや、手捏小型土器もあるなど土器の種類も多く、第5表のようである。見田方遺跡の土師器は量的には甕形土器、坏形土器、碗形土器が多い。坏形土器は頸部が短かくなり調製が粗雑であり、甕形土器は典形的な長胴烏帽子形のものと口頸のクビレが少なくゆるやかな曲線を描いて立上がるやや小形のものとがある。このような土器の種類の傾向、成形法、焼成、色などからしてほぼ鬼高期の中頃に位置づけることができよう。

第5表 見田方遺跡土師器の出土数
種類 完形 不完
壺形土器 3 5 8
甕 〃 6 57 63
甑 〃 2 6 8
鉢 〃 1 1 2
高坏〃 1 7 8
杯 〃 16 3 19
〓 〃 4 7 11
坩 〃 0 1 1
碗 〃 16 11 27
49 98 147

 土師器とともに完形の須恵器が二個出土している。須恵器は初め大陸から渡ってきたが古墳時代の後半期以降には日本で製作された陶質土器である。成形にロクロを用い、登窯(のぼりがま)によって一〇〇〇度C以上の還元状態で灰色ないし灰黒色に焼きあげたかなり硬質の土器である。本遺跡の須恵器は二つ(第23図-6、第40図-7)とも〓(はそう)である。〓は胴部に小さい円孔を作った壺で、円孔に竹などで作った管を挿入した液体の注器として使用されたものらしい。