まとめ

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発掘調査により確認された住居址の基盤をなす土層は、いずれも灰色粘土層で三角州の堆積物とみなすべきものである。縄文前期には今の利根川付近まで達していた奥東京湾が海退期に入って、この付近に河口があった頃の堆積物であろう。さらに海退が続いてこの三角州が陸化すると共にこの微高地に集落が営まれ、水田はさらに低い周辺の湿地につくられていったと想定される。発掘時の調査では、海抜三・五メートルという掘ればすぐ水の溜まる現在の状況からすれば、竪穴住居はつくれなかったのではないかと考えられ、とするならば当時はより乾燥していたという前提条件がなければならない。しかし、現在のところこの前提条件を実証できる程の詳細なるデータ、たとえば気候の寒暖、地盤の隆起沈降についての資料がととのっていない。

 見田方の地に住居が営まれた同じ時期の洪積台地での竪穴住居は隅丸方形で一方の壁に竈を設け、寄棟の屋根を支える柱の位置も整然としているのに対し、第一、第二住居址とも不整形であり、竈(かまど)にかける形体として発達した長甕が発見されているのに炉で間に合わせた形跡があるなど多くの疑問を投げかけている。また、浅いとはいえ竪穴住居ではあるが地盤となっている灰色粘土層を掘り込まずこれらの上面を住居と同じ有機物を含む第二黒色土層が覆い、その中に炭化した用材や壁体としてのカヤ、ワラが検出され、さらに土器などの遺物も散乱しているなど平地住居と疑われるものも存在していた。

 中川沖積低地の陸化とともにいち早く移住してきた彼らは、籾の発見でも解るように周辺の湿地で水田を耕作し、土玉や土錘の存在から付近の河川や池沼で小規模な網漁をし、紡錘車によって糸をより、衣服を織っていたであろう。また祭祀の具としての石製模造品があったことにより、自然災害を起こす荒ぶる神の魂を鎮め、豊作を天に祈る古代農民のはかない願望を知ることができよう。

 だが、見田方の集落地は始めから大きな宿命を抱えていた。関東北部、西部の山岳地帯を水源とする利根川、荒川などの河川は見田方の沖積低地を乱流し、たびたび洪水をもたらしたのである。住居址全体の変形方向、竈の消失、住居址内の土器の残存位置および土器片の散乱方向、各種用材の並び方などすべて北東〓南西を示している。これは北東から南西へかけての圧力すなわち洪水によって起こされたものと解釈できよう。幾層かの黒色土層の存在は地表、埋没、地表、埋没のくり返しを意味し、また第二黒色土層より出土した坏型土器内にマコモが存在していたことや、上層部に二ないし三層の管鉄層(植物の根が鉄分を吸って赤い縦縞を作っている層)が検出されるなど植物の繁茂のくり返しがあったことを示している。このくり返しは度重なる洪水によるものと考えられ、当然ながら人びとの生活もまた洪水に支配されたであろう。前に述べたように、土器出土状態からして、この地に人びとが生活を営んだのは少なくとも二回はあったであろう。そしてその期間は土器形式に大差のないことから一度洪水に見舞われ避難または流されて間もなく再び人びとが住居を営んだものと考えられる。そして再びこの集落地は洪水によって破壊されてしまったのである。その後彼らないし彼らの仲間や子孫はどこへいったのであろうか。

 当時すでに、今の古利根川、元荒川の本流に堆積した自然堤防は存在していたに違いない。それは下流の同じ自然堤防上に古墳が造られていたことによっても知ることができよう。当遺跡から北へ五〇〇メートルの元荒川自然堤防上(大成町)には後の平安期の遺跡が存在していることなどからして、彼らの次の生活の舞台は、現在の古利根川、元荒川の自然堤防上に移っていったものと推定することができよう。そして、古墳時代後期越谷の地に始めて人びとが住み生活を営んだ見田方の集落地は地下に埋もれ、付近は土腐(どぶ)、茨田(いばらだ)という耕地名で呼ばれるようになり、僅かに一本杉の古墳だけが近代まで残っていたのである。