縄文時代の狩猟や漁撈中心の生活から弥生時代の農耕生活に入ると、人びとの生活は安定し、余裕も生じてきたが、反面、前代以来の共同体的規制が崩れ始め、私有財産の観念も生じてきた。集団内部に貧富や身分の差が現われてくる。こうして有力な豪族層が成立してくるが、この豪族層を葬むった古墳に象徴される古墳文化の時代は、畿内を根拠としていた大和朝廷が国内を統一した時期に当っていた。
この頃のようすは中国古代の歴史書である『漢書地理志』や『魏志倭人伝』などに紹介されており、それによると紀元前一世紀の頃、北九州には多数の小国家が分立し、二~三世紀には小国家間で相互に抗争や服属・統合を繰返して、邪馬台国という強力な統一政権を形成したと伝えている。邪馬台国が北九州の部族連合国家をさしているのか、或いは畿内の大和地方のそれをさしているのか明らかでないが、一般には四~五世紀の間に畿内の有力豪族を圧倒した大和朝廷が、さらに進んで北九州や東国を征服して統一国家を完成したといわれている。
この統一事業について、五世紀後半、倭王武(雄略天皇)が当時朝鮮半島で勢力を張っていた高句麗牽制のために、宋の順帝に送った次の上表文の一節に、その状況を窺わせる記述がみられる。
昔祖禰より、躬ら甲胄を〓えて山川を跋渉し、寧処に遑あらず、東のかた毛人を征すること五十五国、西のかた衆夷を服すること六十六国、海北を渡り平ぐること九十五国(宋書)
これには、大和朝廷草創期の天皇が、自ら軍隊を率いて山野に転戦し、東国の蝦夷から西国の熊襲・隼人まで征服し、さらには朝鮮半島まで進出していった英雄的姿を描いている。これに対する我国の伝承は、『古事記』や『日本書紀』に見出すことができ、東国地方に対する進出も、五世紀に入って活発化してくるのである。