『日本書紀』によると大和朝廷の東国経略は、崇神天皇の時四道将軍の一人として武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)の東海道派遣、天皇の御子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の東国派遣、景行天皇の時の武内宿禰(たけのうちのすくね)の東国巡察、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征、さらには天皇自身の東国巡行、彦狭島王・御諸別王の東山道都督赴任記事等によって窺い知ることができる。県内にもこれと関連して氷川神社、金鑽神社、三峰神社の社伝に日本武尊の参詣由緒を伝え、羽生市村君の御廟塚は彦狭島王、加須市樋遣川の御室塚は御諸別王を、熊谷市奈良の延喜式内社の奈良神社は御諸別王の子である奈良別命を祭ったと伝えている。これらの記述や伝承は、そのまま史実と認めるには問題があるが、大まかにみて長期間にわたる大和朝廷と東国地方との軍事的政治的交渉の史実を反映していると考えられ、畿内や九州征覇を成し遂げた大和朝廷が、四世紀末以降五~六世紀にかけて積極的に東国進出を図ったことを示している。
右の伝承のなかでもっとも興味が引かれるのは、越谷にやや近い葛飾野における景行天皇の巡狩説話であろう。これについては『日本書紀』に記されているが、さらに詳しく書かれているのが『高橋氏文』である。これは、内膳司に代々奉仕していた高橋氏(もと膳氏)が、内膳司の地位をめぐって同僚の安曇氏(あずみし)と争った際、自家の始祖を称え、その由来を示すために家伝を記録して延暦八年(七八九)朝廷に提出したものである。この中に景行天皇が葛飾野に巡狩した状況を述べた部分がある。それによるとおよそ次のとおりであった。
景行天皇は、東征の功を終え帰遠の途次死去した日本武尊を悼み、五十三年八月に尊の東征の跡をたずねんと皇后と共に伊勢より東国に入り、冬十月に安房浮島宮に滞在した。天皇は或る日葛飾野に行幸し、皇后と高橋氏の祖磐鹿六〓命(いわかむつかりのみこと)は行宮に留まっていた。その時皇后は異鳥の嗚声を聞き、六〓命に見届けて来るよう命じた。命は鳥を追ったが捕えることができず、帰途堅魚(かつお)と白蛤一個を得た。命はこれを皇后に献上し、無邪志国造の祖大多毛比、知々夫国造の祖天上腹・天下腹人等を呼んで膾(なます)にしたり、煮焼きしたりして食膳に供した。その時天皇も葛飾野から帰り、ともに食して大いに嘉賞し、以後命や子孫に大膳職のことを掌らせた。そして姓を膳臣(かしわでのおみ)と賜わり、また諸国の人民を選んで膳大伴部とし、命に支配させたという。
右の説話から「葛飾」の地名が早くから表われていたこと、この地が大和朝廷の東国における勢力拡大と関係のあったらしいこと、無邪志や知々夫国造の祖先が早くから朝廷と交渉をもっていたこと、朝廷が諸国の農民を部民として編成し支配を強化していった事情等を推察できるのである。
なお、葛飾野について『房総叢書』は小金原付近とし、『南葛飾郡誌』は葛飾一体の地域とし、『葛飾区史』は後の東葛飾一帯の高台方面とし、いずれも越谷にやや近いところに比定している。