千熊長彦と強頸

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文献上、武蔵国の人物が最初に登場するのは、『日本書紀』神功皇后四十七年条に見える千熊長彦である。その記述によれば四世紀半ば頃、武蔵国の人で額田部槻本首等の始祖と伝える長彦が大和朝廷に属しており、しかも先に東国を巡察してきた武内宿禰の推薦によって朝鮮との外交接衝の使臣に起用されている。四十九年三月長彦は百済王と古沙山の磐石上に坐し、磐石のゆるぎのないように永遠不朽に春秋の朝貢を怠らぬという誓いを王にさせ、五十二年には久〓氏を従え「七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝」をもって帰国している。この史実を実証するように、現在奈良県の石上(いそのかみ)神宮に七枝刀が宝蔵されている。それには泰和四年(三六九)の銘が入っており、好太王の碑文と併せ考えると、日本書紀の朝鮮交渉の記述は無視しがたく、また南武蔵の古墳が四世紀後半に遡り得るというから、長彦に代表される武蔵の豪族と大和朝廷を中心とする畿内勢力とが、早くから接触をもっていた事を示しているように思われる。

 次に武蔵出身の人物が登場するのは、同じく『日本書紀』の仁徳天皇十一年の武蔵強頸(こわくび)の記事である。大和朝廷は四世紀後半から五世紀初頭にかけて河内平野の開拓を強力に進めたが、その一環として仁徳天皇の代にも難波(大阪)の開拓が計画され、淀川治水のために茨田堤(まんだづつみ)の築堤が実施された。当時は土木技術の稚拙な時代だったのでこの事業に動員された労働力は莫大なものであり、強頸等の東国農民もこれに徴発されていった。

 この茨田堤の築堤に当りどうしても二ヵ所が決壊し、工事が遅々として進まなかった。これを憂えた天皇は夢のお告げにより武蔵人強頸と河内人茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)を召して河神を祭らせた。しかし、強頸は河神を征圧できず悲泣しつつ水没する。すなわち人柱に立って一方の難所をおさえたのである。他方衫子は二個のヒサゴを投げ入れ、自分の身代りにして堤を完成した。時の人はこの両所を強頸断間(たえま)・衫子断間と呼んだという。伝によると衫子断間は寝屋川の太間部落に、強頸断間は大阪市旭区千林町辺に擬されるというから、強頸は淀川下流の河幅広く水量豊かな難所を割当てられたことになる。

 強頸は、「西角井系図」によると武蔵国造家の一員となっているがこれは信じがたく、むしろ南武蔵に住み、水利に長じた帰化人だったのではないかと思われる。畿内文化人の茨田連がヒサゴの呪術を駆使して難所を克服したのに対し、武蔵出身の強頸は畿内先進文化の前に何らなすすべなく悲泣して人柱となった悲劇性、ここに大事業に対した時の畿内人の合理性と東国人の原始信仰に対する対応のしかた、ないし東国の政治的文化的地位の低さを象徴的に示しているように思われてならない。