国造の設置

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前述のように四世紀末から五・六世紀にかけて、大和朝廷の勢力が武蔵を経て下総に達したが、この頃巨大な古墳を築いていた地方豪族の中には、大和朝廷に服属して国造に任命されるものが出てきた。当初は、朝廷の支配力も弱かったので、国造は従前の勢力圏と族長としての地位を認められていたが、やがて氏姓制に基づく朝廷の支配体制が確立してくると、関東北部に独立的勢力を誇っていた毛野君を除き、坂東諸国の国造層は朝廷に対して隷属関係の強い直(あたえ)姓をもつ伴造に再編され、〝クニ〟と呼ばれた勢力圏を支配すると共に部民を率い、職能に応じて朝廷に奉仕した。国造の支配していた〝クニ〟は、後の律令制下の国よりも狭く、またクニとクニとの境も接していたわけでなく、間には政治的空間地帯が存在していた。

 その頃の我国には、一四四ヵ国に国造が置かれていたと『先代旧事本紀』中の「国造本紀」には書かれている。ところが、この先代旧事本紀は後の研究によって、序文に聖徳太子撰とあるのは誤りで、平安初期物部氏によって偽作されたということが明らかとなり、その史料的価値を減じてしまった。ところがその内容を仔細に検討すると無下に否定し去ることはできず、古事記・日本書紀・風土記・高橋氏文等、当時の国造名を伝える史料と突合せるとそのほとんどが符合し、また最近の研究では、国造本紀に記載されている国造名は六世紀中葉以降、七世紀後半までの期間に実在した国造ではないかとの説も出されていて、その史料性が見直されている。

 この「国造本紀」によると、武蔵・下総地方に置かれていた国造は次のとおりである。

 武蔵

  无邪志国造 成務朝に出雲臣の族兄多毛比命を任命 (本拠武蔵国足立郡)

  胸刺国造  兄多毛比命の子伊狭知直を任命 (本拠武蔵国多摩川流域か)

  知々夫国造 崇神朝に八意思兼命の裔知知夫彦命を任命 (本拠武蔵国秩父郡)

 下総

  印波国造  応神朝に神八井耳命の裔伊都許利命を任命 (本拠下総国印幡郡)

  下海上国造 応神朝に天穂日命の裔久都岐直を任命 (本拠下総国海上郡)

 しかし、大和朝廷はこれらの国造を東国各地に容易に設置し得たのではなかった。日本書紀の崇神・景行・安閑各天皇条の上毛野君関係の記述にはそれを窺わせるものがある。例えば崇神天皇四十八年条には、東国の支配と皇位継承問題が同等に扱われていて、毛野氏の東国における特殊な地位を示しているし、また安閑天皇元年(五三四)条には、後述するように上毛野君が武蔵国造の紛争をめぐって大和朝廷に反抗した節も窺われ、これら一連の記事から上毛野氏を中心とした東国在来の勢力が、容易に朝威に服さなかったことを伝えている。大和朝廷の勢力確立期において、この上毛野君のように、皇室と同等の力を有していた臣(おみ)・公(きみ)・君(きみ)姓をもつ氏族には、おおむね朝廷に対する反抗の記事が多く見られ、出雲・吉備(臣姓)の反抗、筑紫磐井(公姓)の反乱等はその代表例である。これに対し朝廷に隷属性の強い直姓豪族は大和朝廷の勢力が強く及んだ地域に存在し、史料にも伝承にも朝廷に対する反抗の証は乏しい。そしてその分布も近畿・吉備・出雲を除く中国・中部の一部、及び関東地方南部に及ぶといわれている。武蔵や下総の国造は直姓で、勿論朝廷に対する積極的反抗の伝承は認められず、後に述べるように、むしろ従属を示す部民や屯倉の設置が他国に比して多く見られるのである。