武蔵国造の紛争と屯倉

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『日本書紀』の安閑天皇元年(五三四)閏十二月条に、武蔵国で笠原一族の間に国造の地位をめぐる内紛のあったことと、内紛処理としての屯倉(みやけ)設置に関する興味深い伝承を伝えている。すなわち、武蔵国造笠原直使主(かさはらのあたえおみ)と同族の小杵(おぎ)が、長年国造の地位をめぐって争っていた。小杵は密かに東国の豪族上毛野君小熊に救援を求め、使主を殺そうとした。これを覚(さと)った使主は逃走して都に上り、これを大和朝廷に訴え出た。そこで朝廷は使主を国造に決めると共に小杵を誅伐した。喜んだ使主は朝恩に報いるため、多氷(末)・倉樔・橘花・横渟の四ヵ所の屯倉を朝廷に献上したというのである。

 この伝承の真偽については、日本書紀の性格上種々の解釈がなされ、単に屯倉設置の由来を示す説話だと主張する者もある。しかし、史実とすれば、大化前代の武蔵の政治情勢を伝える貴重な史料ということになる。特に最近は前述のように文献批判を超えた考古学の成果が明らかにされ、それが安閑紀の記述と一致することも指摘されている。

 まず我々は、右の伝承から六世紀頃の武蔵国造が笠原直という豪族だったことを知り得、また笠原という名は地名に関連すると思われるので、その地として『倭名類聚抄』の埼玉郡笠原郷、今の鴻巣市東部の笠原沼に近い地域を比定し得る。このため笠原に近い埼玉古墳群は、時期的に使主と合致する古墳もあるので、笠原氏に関連する墳墓だともいわれている。この時、使主と小杵の間で争われた武蔵国造は、国造本紀に出てくる三国造と同じレベルのものか、或いは武蔵全域を支配していた国造かはにわかに断定できないが、前期古墳の分布の著しかった多摩川流域の南武蔵古墳が次第に衰退し、代って六世紀以降荒川中流の埼玉古墳群に巨大な後期前方後円墳が集中していることから、首長権は南武蔵から北武蔵に移ったと考えられ、三国造はこの頃一つに統一されていたか、或いは、この事件を契機に分立化していた国造が統一化したとも考えられる。いずれにせよ、前述のように六世紀に武蔵国の支配権をめぐって大きな変動のあったことは認めてよいと思う。

 次に安閑紀の記述で見落してならないのは、武蔵国の紛争が単に国造一族の内紛に止らず、使主と小杵の背後に大和朝廷と東国の豪族上毛野氏の対立という政治的事情があったことであろう。使主の勝利は、上毛野君に代表される在来勢力の敗北を意味し、この後四ヵ所の屯倉を前進基地として、朝廷の武蔵支配は積極的に推進されたのである。

 使主が朝廷に献上した屯倉は、多氷(末)は後の多摩郡、倉樔(樹)は久良岐郡、橘花は橘樹郡と、いずれも東京都や神奈川県内に郡として残っている。横渟についには多摩郡横山地方とする説と、県下横見郡(今の比企郡の一部で吉見地方)とする説の二説がある。後に郡名として残ったことと、吉見百穴をはじめとする群集墳の分布から横見郡とするのが妥当であろう。

 安閑朝の屯倉の設置は武蔵国のみにみられる現象ではなく、関東では上総の伊甚屯倉、上野の緑野屯倉の設置があり、全国的に見ると第7表に示すように安閑元年に一〇ヵ所、同二年に二六ヵ所、計三六ヵ所とこの期に集中されているのが目立つ。これは継体・欽明両朝の内乱を通じた不安定な政情と中央豪族層の勢力交替を背景として、地方に対する支配が強まり、地方豪族と大和朝廷との抗争を通じて設置されたと考えられ、服属した地方豪族は伴造に、農民は部民として編成されていったのである。

第7表 安閑紀屯倉設置一覧
設置年代 国名 屯倉名 合計
安閑1,4 伊甚 伊甚 1 1
〃1,10 大和 小墾田 1
河内 桜井・難波 2 3
〃1閏12 摂津 三嶋竹村 1
安芸 過戸盧城部 1
武蔵 横渟・橘花・多氷・倉樔 4 6
〃2,5 筑紫 穂波・鎌 2
〓碕・桑原・肝等・大抜・我鹿 5
春日部 1
播磨 越部・牛鹿 2
備後(吉備) 後城・多弥・来履・葉稚・河音 5
婀娜(備後) 胆殖・胆年 2
阿波 春日部 1
経湍・河辺 2
丹波 蘇斯岐 1
近江 芦浦 1
尾張 間敷・入鹿 2
上毛野 緑野 1
駿河 若贄 1 26
合計 36 36