部民の設置

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草創期の大和朝廷は、国造や伴造などという有力な族長を通じて東国農民の支配を強めた。これらの族長は朝廷との関係において氏や姓(かばね)(連・君・直・道等)を与えられ、傘下の氏集団を率いて朝廷に奉仕した。この氏や姓によって形づくられた支配体制を氏姓制度といい、氏には、氏の生活を支えた農民や技術者が従い、部民(べのたみ)と呼ばれた。部民は、族長が支配していた一団の農民を割きとって設定した例が多いといわれているが、特定の貢納物生産や賦役をもって氏に従属し、氏上である族長はこれをもって朝廷に奉仕するという体制になっていた。この氏姓制と部民制は次頁以降の第8表に見られるように武総地方にも広く見られ、これを考察することによって、或る程度大化前代頃のこの地域の状況を窺うことができるのである。一般には、部民の設置は東国の方が先進地畿内に比べ密なことから、大和朝廷の東国支配の特殊性と緊密性を指摘する一例証となっている。

第8表 武蔵・下総(西部三郡)部民一覧
郡名 部名 分類 部民名 出典
足立郡 丈部 丈部直不破麻呂 続日本紀天平宝字8,10,7条
入間郡 物部 物部直広成  〃  神護景雲2,7,11条
矢田部 矢田部黒麻呂  〃  宝亀3,12,6条
大伴部 大伴部直赤男  〃  宝亀8,6,5条
横見郡 日下部 日下部東人 寧楽遺文 下巻
埼玉郡 藤原部 藤原部等母麻呂 万葉集巻20
物部 物部刀自売
男衾郡 飛鳥部 飛鳥部虫麻呂 寧楽遺文 下巻
那珂郡 宇遅部 宇遅部大山・黒栖・真笑 武蔵国分寺出土瓦銘・県史2
当麻部 当麻部牛麻呂
大伴部 大伴部真足女 万葉集巻20
賀美郡 大伴部 大伴直中麻呂・同荒当 寧楽遺文 下巻
秩父郡 大伴部 (膳大伴部天上腹・天下腹命) 日本書記 景行53,8条
大伴部 (上祖三宅連意由) 高橋氏文 景行57条
大伴部 大伴部小歳 万葉集巻20
橘樹郡 刑部 刑部直国当 寧楽遺文 下巻
飛鳥部 飛鳥部吉志五百国 続日本紀 神護景雲2,6,21条
椋橋部 椋橋部弟女 万葉集巻20
物部 物部真根  〃
都筑郡 服部 服部於由・同呰女  〃
多摩郡 刑部 刑部直道継・刑部広主・同真刀自〓 続日本後紀 承和13,5,2条
日下部 日下部真刀自 日本霊異記 中巻
大伴部 大伴部吉志火麻呂  〃   中巻
白髪部 白髪部  〃   下巻
豊島郡 椋橋部 椋橋部荒虫 万葉集巻20
宇遅部 宇遅部黒女  〃
宇遅部 宇遅部白岐太・結女 武蔵国分寺出土瓦銘
倉梯部 倉梯百足     〃
刑部 刑部広島     〃
壬生部 壬生部子万呂・荒□     〃
鳥取部 鳥取部角     〃
土師部 土師部     〃
豊島郡 占部 占部乙麻呂 武蔵国分寺出土瓦銘
郡名不明 額田部 額田部槻本首 日本書記 神功皇后47,4条
物部 武蔵国造物部連兄麻呂 聖徳太子伝暦 舒明5条
伊福部 伊福部浄主 日本後紀 大同1,8,19条
椋橋部 大安寺僧伝灯大法師位寿遠の出自 続日本後記 承和5,12,27条
漆部 漆部 比企郡泉井窯址出土瓦銘
宇遅部 □遅部小□     〃
鳥取部 鳥取部万呂     〃
刑部 刑部 比企郡須恵窯址出土瓦銘
都羅部 都羅部 大里郡末野窯址出土瓦銘
若奉部 若奉□ 武蔵国分寺出土瓦銘
播他部 播他部     〃
神人部 神人部広□     〃
城部 城部玉・根□     〃
壬生部 壬生部     〃
□(矢カ)作部 □(矢カ)作部五百足     〃
占部 占部犬麻呂     〃
土師部 土師部□     〃
那珂郡 檜前舎人 檜前舎人石前 万葉集巻20
賀美郡 檜前舎人 檜前舎人直由加麻呂 続日本後記 承和7,12,27条
葛飾郡 孔王部 孔王部小山他 寧楽遺文(養老5年下総国大嶋郷戸籍)
刑部 刑部結売他   〃    〃
私部 私部小手子売他   〃    〃
三枝部 三枝部古与理売他   〃    〃
中臣部 中臣部移乎売   〃    〃
土師部 土師部志漏   〃    〃
大伴部 大伴部稲依売   〃    〃
壬生部 壬生部真若売   〃    〃
日奉舎人部 日奉舎人部真島   〃    〃
長谷部 長谷部小宮売   〃    〃
磯部 磯部刀良売他   〃    〃
石寸部 石寸部比米都売   〃    〃
小長谷部 小長谷部椋売   〃    〃
葛飾郡 藤原部 藤原部奈為売 寧楽遺文(養老5年下総国大嶋郷戸籍)
刑部 刑部少倭   〃    〃
私部 私部石島 万葉集巻20
孔王部 孔王部美努久〓 続日本紀 天応1,10,25条
倉麻郡 藤原部 藤原部黒楢他 寧楽遺文(養老5年下総国倉麻郡意布郷戸籍)
藤原部 藤原部直白麻呂他   〃    〃
占部 占部宮麻呂   〃    〃
土師部 土師部与佐売   〃    〃
大伴部 大伴部伎奴古売他   〃    〃
久須原部 久須原部音   〃 天平宝字6 石山解
矢作部 矢作部麻呂   〃 天平17 布袋
矢作部 矢作部広万呂   〃 天平宝字6 石山解
大伴部 大伴部子羊 万葉集巻20
猿島郡 刑部 刑部志加麿 万葉集巻20
日下部 日下部浄人→阿倍猿島 続日本紀 宝亀4,2,8条
孔王部 孔王部山麻呂   〃  延暦9,12,19条

(註)○名代・子代 □貢納型の品部 △番上・服属型の部民を示す。

 部民は大別すると、(一)特定の天皇や皇族の名号・宮号を負い、その軍事的経済的基盤として設けられた名代・子代、(二)中央豪族に服属した部曲(かきべ)、(三)特定手工業生産に従ってその製品を貢納した品部(しなべ)の三つに分けられる。

 このうち武総地方に多数設置されていたのは(一)の名代・子代で半数以上を占めている。越谷周辺の埼玉・葛飾・豊島三郡内に限っても、藤原部・孔王部・刑部・私部・三枝部・壬生部・長谷部・日奉舎人部・小長谷部・宇遅部・倉梯部等が置かれている。

 これらの名代・子代は名称からその設置年代を推測できる。すなわち宇遅部は応神天皇の皇子宇遅部稚郎子のために設けられた部として応神朝に、刑部は允恭天皇の大后見坂大中姫の、藤原部は同じく允恭天皇大后の弟姫で藤原宮に住んでいた衣通郎姫の部として允恭朝に、孔王部は安康(穴穂)天皇の子代として長谷部と共に安康朝に、三枝部は顕宗朝に、小長谷部は武烈朝、私部は敏達朝、倉梯部は崇峻朝、壬生部は推古朝に設定されたといわれている。允恭天皇は五世紀中葉頃の天皇とされているので、武総地方に対する大和朝廷の積極的支配はその頃以降と考えてよい。また、名代・子代は設置に当って一定地域に集中しているという特徴が見られる。たとえば養老五年(七二一)の「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」や「倉麻郡意布郷戸籍」によると一郷はほとんど同姓者で占められ、大嶋郷は六一八人中、孔王部姓を名乗る者は五四六名、刑部姓は二〇名、意布郷では藤原部姓が五五名、藤原部直姓が九名となっていて、直姓をもつ国造一族を中心に共同体ぐるみで部民に設定されていた。この場合の部民は氏の総員が部民となった皇族に従属しているので、氏人に従う部民とは性格を異にしていた。彼等は在来の村落に住み、農耕に従事していて、族長の指揮のもとに名を付された天皇や皇族に収穫物を貢納し、或いは京に上って賦役に従事したのである。

 (二)の部民としては大伴部・物部の分布の多いのが目立つ。大伴部は中央豪族大伴氏に従った部民で、物部や久米部等と同様軍事奉仕を職とした。その分布は他の部民に比べて圧倒的に多く全国に及んでいる。武蔵では一族から无邪志国造・知々夫国造を務めたとも伝え、『高橋氏文』によれば景行天皇の葛飾巡狩の際に六〓命を助け膳大伴部として供奉し、『本朝月令』の景行天皇五十七年条には、「大伴部上祖三宅連意由」の名も見え、屯倉もしくは御田の管理に当っていたのではないかと推定されている。降って八世紀には万葉集に秩父郡出身の防人、助丁大伴部少歳の名が見え、神護景雲三年(七六九)、入間郡の豪族大伴部直赤男は奈良西大寺に財物を寄進し、従五位下を追贈されている。このように大伴部は県内で大きな勢力を振い、物部についても同様であった。

 (三)の部民としては土師部と矢作部が目立ち、北葛飾郡鷲宮町にある鷲宮神社はもと土師宮と書かれ、土師氏が祭った社と伝え、武蔵と土師部との関連を示している。