大化改新前後と東国国司

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六世紀の武蔵国には、巨大な埼玉古墳群を築造したと推定される大豪族―笠原氏等が出現し、国造には笠原氏が任命されていた。この後の武蔵国造については伝えるところがなく、おそらく笠原直使主の子孫が継承したと思われる。ところが群集墳出現に見られる在地勢力の変動の中で、やがて国造職は物部氏の手に移っていった。

 『聖徳太子伝暦』に

  舎人物部連兄麿、性(ひと)となり道心ありて常に斎食を以ってし、後に優婆塞(うばそく)となり、常に左右に侍す、癸巳の年、武蔵国造を賜わる。

 とあって、物部連兄麿が癸巳の年(叙明天皇五年―六三三)に、武蔵国造に任命されたと伝えている。これによると兄麿は都に上って舎人となり、聖徳太子に仕えて太子の崇仏心に感化され仏門に入ったと思われる。また常に太子に近侍し、その功によって武蔵国造に任命されたので、この時以前から国造職は物部氏に移ったことがわかる。

 しかし、ここで一つ問題になるのは兄麿が物部連を名乗っている点である。氏姓制では「連(むらじ)姓」は臣(おみ)と並んで中央豪族に与えられた姓で、それに従えば兄麿は全国の物部氏を総領していた物部連家の出身者ということになる。ところが、武蔵国には大伴部と共に物部の分布が多く国造家の一とされ、兄麿の子孫といわれる入間郡の物部直広成は、兄麿と同様に軍事で朝廷に仕え、天平宝字八年(七六四)恵美押勝の叛乱には授刀衛として鎮定軍に参加している。後には東北蝦夷征討の軍監に栄進し、神護景雲二年(七六八)在地名族として一族六人と共に入間宿禰の姓を賜った。国造は在地豪族を任用するのが建前であるから、兄麿は物部連家の系譜ではなく物部直(あたえ)家の出身でなければならず、したがって伝暦は「直」を「連」と誤記したものであろう。

 ところで、物部氏が国造に任命された七世紀前後は、武蔵国の地方豪族の間に勢力変動があったらしく、後期古墳と呼ばれる群集墳の成立が広範に見られた。この古墳は一ヵ所に数十基、数百基という小規模古墳が群れとなって存在し、他の国々でも同様であった。これは従来有力氏族のみがもっていた古墳築造権が、大和朝廷の支配貫徹と、新しい身分秩序の形成、共同体の分解による家父長制豪族層の成立によって、これまで古墳を持たなかった共同体内の上層農民層が墳墓をもてるようになったためであろうといわれている。その代表的県下の遺跡が比企郡吉見町にある「吉見百穴」や、その周辺に存在する群集墳であり、またこの地は安閑朝に横渟屯倉の置かれた所でもあった。

 この間、朝廷においても政治的変動が続き、強大氏族が出現して仏教信仰の問題や皇位継承をめぐりはげしい政権争いが展開され、また大陸では我国の進出拠点である任那日本府が亡ぼされて内外共に切迫した状態にあった。このような危機に聖徳太子が出現し、蘇我氏等の諸豪族を押え、内政外交両面にわたって数々の新しい政策を展開したのである。ところが太子が没すると再び蘇我氏の専横が始まり、これを憂えた中大兄皇子が中臣鎌足と図って蘇我氏の専制を除き、皇室の権威を確立しようとした。

 皇極天皇四年(六四六)六月、中大兄皇子、中臣鎌足等は奇計を用いて大極殿に蘇我入鹿を誅し、続いて蝦夷を自殺させた。皇子等は直ちに孝徳天皇を即位させ、従来の政治体制を打破して内大臣、左・右大臣、国博士等を任命して年号も大化と改め、強力な中央集権的官僚国家を作り上げた。これ以後の一連の政治改革が「大化改新」と呼ばれるものである。

 まず、改新政府が最初に手がけたのは、その年八月に東国国司八人を任命したことと、国司に対し地方政治の方針を指示したことである。この時の東国八国は、後の令制に定められた国々と異なり、およそ東海道の三河以東、東山道の信濃以東の坂東諸地域で、武蔵・下総両国も含まれていた。これらの国司たちは国造や伴造が支配していた農民を戸籍に登録し、田畝を取調べ、国造を監督し、武器の収公を任務としていた。彼等は令制の国司と異なり、国造の監督のために派遣された臨時官としての性格をもち、管下の国々を巡察して翌年暮帰京し、各人の政情報告に基づいて実行の可否を評定されている。改新政府が改新政治の第一の具体的な仕事として東国国司を任命し派遣したことは、東国が天皇直轄地としてきわめて重要な位置を占め、改新政治を断行するのにもっともふさわしい地とされたためであろうといわれている。

 次いで翌二年、有名な大化改新の詔が発せられ、改新の具体的方針が示された。この要点は(1)皇室や豪族がもっていた土地人民を収公して公地公民としたこと。(2)国・郡・里などの地方行政区画をつくり、地方官の任用規定や、軍事交通制度を定めたこと。(3)戸籍や計帳をつくり班田収授法を定めたこと。(4)新しい税制を施行したことの四点であった。これによって地方では、これまでの国造による支配が停止され、国は中央から派遣された国司の支配を受けることになり、国造の支配権は郡司、里長を通して行われた。郡はかつての「クニ」が再編されたもので、国造や有力豪族が郡司に任命された。この際郡司は一時評造・評督に、郡は評(こおり)と呼ばれたことが、藤原宮出土木簡銘の「上挾国阿波評松里」によって確認され、郡と呼ばれたのは大宝令以後のことといわれている。