武蔵国司と下総国司

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国郡里制度がおおむね軌道に乗ったのは庚午年籍の成立した七世紀後半のことといわれ、天武天皇十一年(六八三)に諸国の境界が画定され、文武天皇二年(六九八)に諸国の郡司が任命されている。次いで大宝二年(七〇二)の大宝律令の施行によって地方制度が整ったと思われる。この間、武蔵や下総に国司の派遣があったか否か不明だが、文献上では、翌三年七月、従五位下引田朝臣祖父が武蔵国司に、正五位上上毛野朝臣男足が下総国守に任命されたのが文献上の初見である。この時の国司任命は明らかに前年の大宝令施行と関係をもつものであった。

 国は当初全国で約六〇ヵ国とされていたが、天長元年(八二四)以降は六六国二島と確定され、課丁や田畑の多寡によって大・上・中・下の四等級に区分された。武蔵国は大国に、下総国も同様大国とされ、国司の定数は第9表のとおりであった。このほか職員令では、国学の教授である国博士、国内の医事を担当し医生を教えた国医師が置かれる立前となっていたが、史料がなく不明である。

 第9表 国役人の構成
等級 史生
1 1 大1 大1 3 9
小1 小1
1 1 1 1 3 7
1 1 1 3 6
1 1 3 5

 国司は中央から任命派遣され、国衙に勤務し任国の民政全般を掌った。これには守・介・掾・目の四等官があったが、時には国守のみを国司と呼ぶこともあった。令制では国内の行政・司法・警察・軍事・宗教・土木・教育・交通等、国内に関する総ての面にわたって中央政府の意向を体し、徳化主義をもって部内の撫育に当るとされた。このため毎年一回属郡を巡行して民情を察し、善行を賞して非行を糾察し、勧農に努めたのである。任期は当初六年であったが、後四年となり、介以下は国守の補佐に当った。国司は職分田と共に公廨稲の配分に与かったため収入がきわめて多く、後には公廨稲配分のみ与かる員外国司の制度ができて、国司制の崩壊する原因となった。

 国司の常駐する国府は、武蔵では多摩郡小野郷(東京都府中市)に置かれた。小野郷への設置の時期は一般に武蔵国設置の当初からと考えられているが、遠藤元男氏の所説によれば、初め足立郡大宮付近にあったものが、宝亀二年(七七一)武蔵国が東山道から東海道へ所属替えになった時を契機として、小野郷に移ったとしている。史料として問題はあるが『武蔵風土記残編』には「足立郡足立府」の名が見え、国造時代より大宮の地が武蔵国の政治の中心だっことを伝えている。これを是とすれば改新後大宝令施行までの半世紀は戸籍の作製に見られるような律令制施行の準備期間と思われるので、この間は従前のように足立郡郡家郷(大宮)が政務の中心地となり、八世紀初頭、律令の施行によって国司を派遣し、在来勢力を離れた新天地である多摩郡小野郷に国府を置いたとも考えられる。なお、下総国府は葛飾郡国府台(市川市)に置かれていた。