余戸郷

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埼玉郡南部にあって主として越谷・八潮地域とされた余戸郷は、一郡を単位に一里五〇戸の編成をした際、一〇戸以上五〇戸未満の端数を生じた「割(さ)き余りの戸」をもって構成されたものである。したがって一里五〇戸の普通里に対し、変則的例外的編戸となっている。余戸郷設置の法的根拠は「戸令」為里条の注釈に見えるが、その解釈をめぐって種々の説が行われ一定していない。

 『倭名類聚抄』によると武蔵国には二一郡中一一郡に余戸郷の設置が見られ、さらに同書に見えない男衾郡にもかつては余戸郷の置かれていたことが証明されている。すなわち平城京跡出土木簡に「武蔵国男衾郡余戸里大贄鼓一斗 天平十八年十一月」とあって、天平十八年(七四六)に男衾郡の余戸里から天皇供御物の鼓(味噌の一種)一斗を貢進しているのである。これが倭名抄に見えない理由は、男衾郡の隣郡である那珂郡が承和一〇年(八四三)戸口増益により小郡から下郡に格上げしているので、おそらく男衾郡余戸里も戸口増益して普通里となり、余戸の名称は消滅したのではあるまいか。いずれにせよ武蔵には一一~一二郡に余戸郷の設置が見られ、下総国でも一一郡中五郡と半数以上の郡に設置されているのである。この設置状況は東国と西国を比べると東国が圧倒的に多く、特に北陸・東北・関東地方に多いのが目立つ。戸令には「若し山谷阻険にして、地遠く人稀れの処は、便に従って量り置け」とあるので、開発の遅れた僻遠の地で人口も稀薄な地域に多く設置されたものと思われる。埼玉郡南部は低平で河川の乱流が激しく、久しく開発を拒んでいた地理的事情が人々の居住を少くし、余戸郷として編戸される原因となったのであろう。やがて土木工法の進歩、人口の増加によって開発の手が加えられると多数の村落が形成され、前述のように多くの郷が成立してきたのである。