租・庸・調

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律令的里制の施行により一里(郷)五〇戸に編成された農民は、一般に「編戸の民」とか「調庸の民」とか呼ばれ、租・庸・調及び雑徭等の諸税の輸納義務に服することを厳しく要求された。彼等は、六年毎に作製された戸籍や、毎年作られる計帳に人頭別に詳しく登録され、租税賦課対象者として明確に把握されていた。まず収税の基礎として六歳以上の男女に口分田と称する水田を分け与えた。その面積は、男子に二段(一段三六〇歩で約一一・七アール)、女子にはその三分の二(一段一二〇歩)、奴婢はその三分の一(二四〇歩)とされた。口分田は一生使用できるが売買は固く禁じられ、死者は次の班年の時に収公された。これを通常「班田収授法」と呼ぶが、その意図は豪族の土地人民の兼併を防ぎ、農民の生活を保障すると共に、徴税源を確保する点にあった。

 農民にかかる負担は、大別して生産物貢納と労役に分けられ、租・調は生産物貢納、庸は労役とされたが、実際は庸も布で納めるようになり、三者とも生産物貢納であった。

 租は令制によると田一段につき二束二把(一束一〇把、一束約三キログラム)を納めるとされ、当時の標準収穫量七二束の約三%と租率は比較的低い。慶雲三年(七〇三)には一束五把(標準収穫五〇束)と改定しているが租率は変わらない。租稲は郷戸主が一括して郡や国の正倉に納入し、公廨(くがい)や土木費等地方の経常費に充てられた。

 武蔵国の租は、『延喜式』によると正税・公廨が各四〇万束、雑稲は国分寺料五万束をはじめ合計三一万三七四束、正税・公廨・雑稲を合せて一一一万束余となっている。当時の一束は三キログラム、約二升と考えられているので、換算すると武蔵国の租の総額は三三〇〇トン余、石数にして二万二〇〇〇石余となり、下総国は同様にして約一〇三万束で三〇九〇トン、石数二万六〇〇石となる。降って『倭名類聚抄』によると武蔵国の総田数は三万五五七四町歩余となるから、段当り平均五〇束の収穫稲と仮定して租率三パーセントであるから租稲の合計は五三万三六一〇束となり、一世紀余を経て五〇パーセント余の増収となっている。

 庸は、正丁(二一~六〇歳の男子)が歳役として一年に一〇日間上京して都で労役に服す代りに、麻布を一日二尺六寸の割合で二丈六尺、老丁(六一~六五歳)はその半分を京に運ばせ大蔵省に納付し、中央政府の財源とした。京進のための運脚夫は庸を出す戸の負担とされ農民に二重の負担を強いた。このため養老元年(七一七)以降は一丈四尺に減額された。

 調は、絹・〓(あしぎぬ)・糸・綿・布などの繊維製品や、その国の産物を一定量貢納した。『延喜式』には各国ごとに貢納する調と中男作物(一七~二〇歳、後に一八~二一歳の男子に課せられた調で正丁の四分の一)の品目名やその賦課量を定めており、あわせて租稲で買入れて京進した産物が列記されている。それらの品々から当時の産業の実態を窺うことができる。それによると武総両国の調と中男作物及び各寮司に納めた品々は次の通りであった。

(武蔵)

 調…絣帛六〇疋、紺六〇疋、黄帛一〇〇疋、掾帛二五疋、紺布九〇端、縹布五〇端、黄布四〇端、〓、布

 中男作物…麻五〇斤、紙、木綿、紅花、茜

 内蔵寮…竜鬢筵三〇枚、細貫筵三〇枚、麻子六斗、〓五〇疋、商布三〇〇〇端、櫑子四合、紫草三二〇〇斤

 民部省…租穀一万二〇〇〇石、筆一〇〇管、麻黄五斤、〓五〇斤、麻子六斗、蘇二〇壺、布類一万二五〇〇端、〓五〇疋、木綿四七〇斤、皷七五張、鞦二〇具、履料牛皮二張、櫑子四合、筵類五六〇枚、紫三三〇〇斤

 兵部省…甲六領、横刀二〇口、弓六〇張、征箭六〇具、胡〓六〇具、健児一五〇人

 典薬寮…薬草類二八種

 左右馬寮…貢馬五〇疋 飼馬一〇疋

(下総)

 調…〓二〇〇疋、紺布六〇端、縹布四〇端、黄布三〇端、後に布を納める。

 中男作物…麻四〇〇斤、紙、熟麻、紅花

 斎宮寮…調布三〇〇端、熟麻一〇〇斤

 内蔵寮…麻子七斗、商布三〇〇〇端、櫑子四合、紫草二六〇〇斤

 民部省…租穀一万四〇〇〇石、筆一〇〇管、牛皮六張、牛角一二口、麻子七斗、蘇二十壺、布一五九〇端、商布一万五〇五〇端、鹿革二〇張、皺文革一〇張、紫草二六〇〇斤、櫑子四合

 兵部省…健児一五〇人、甲五領、横刀一六口、弓五〇張、征箭五〇具、胡〓五〇具

 典薬寮…青木香一斤八両、〓〓八斤、前胡、連翹、黄精、白〓、槁本二斤、白薇二斤、独活五斤、薺〓五斤、桔梗五斤、木斛五斤、白觧五斤、大戟五斤、枹杞一〇斤、松脂一〇斤、白求三斤五両、藍漆五斤、〓茄一斤、芍薬一〇両、瞿麦六斤、地楡一四両、白頭公九斤、茯苓六斤、続断四両、爪蔕三両、蒲黄二斤、榧子大一斗、薯蕷一斗、桃仁一斗、麦門冬四升、蜀椒四升、附子大五升、荏子二斗、地膚子一升、獺肝二具

 内膳司…稚海藻六龍

 左右馬寮…馬四疋

 調として貢納した品々はしばしば改定されたらしく、武蔵国では和銅六年(七一三)に従前布を貢進していたのを、以後は〓を並進するように改めている。

 調の輸納量は、令制では正丁一人につき二丈六尺(巾二尺四寸、二丁分で一端)であったが、養老元年以降二丈八尺となり、庸布の一丈四尺を加えるとちょうど一端(巾二尺四寸、長四丈二尺)となり、以後この基準で実施されていった。このほか付加税として調副物(ちょうのそわりもの)の納入も定められていたが、奈良中期には廃された。諸国の調の貢納状況を伝える『平城京出土木簡』や『正倉院古裂』によると武蔵国の戸から次のように調・庸・布一端宛が、貢進されていた。

 武蔵国男衾郡鵜倉郷□原里飛鳥マ虫麻呂調布一端 天平六年十一月

 武蔵国加美郡武川郷戸主大伴直中麻呂□大伴直荒当庸布一段主当国司史生従八位下佐味朝臣此奈麿、郡司少領外従八位上宍人直石前天平勝宝五年十一月

 ](武蔵)国横見郡御坂郷日下部東人□庸布壱段[ 

 ところが下総国の例を見ると「下総国相馬郡大井郷戸主矢作部麻呂調并庸布壱端 天□(平)十七年十月」とあって、他の四例とも総て調と庸を合せて一端として輸納しており、相模の一例を除けば下総国のみの特徴となっている。

 これらの調は武川郷の例でわかるように専当の国郡司の検校のもとに収納され、国府に廻送されて、ここで国別一括して十二月三十日以前に専当国司の部領のもとに京進された。行程も厳しく規制されており、上りは武蔵二十九日、下総三十日、下りは共に十五日と定められていた。

 平安初期の武蔵国における調庸輸納についての詳しい史料(承和八年五月七日太政官符、『類聚三代格』)があるので紹介すると次の通りである。

 さきに男衾郡司を務めたこともある帰化人系の在地豪族、榎津郷戸主外従八位上壬生吉志福正は、自分は官位をもっているため蔭位により課役免除となるが、その官位が低いため蔭位は子孫に伝えることができない(蔭位は五位以上の子孫と決められていた)。ところが自分は老令になりやがて死ぬ身であるが、二人の子息は才能もなく、調庸の納入を全うできないかも知れない。そこで父として二人の子息の一生涯分の調庸を一括前納したいと願い出、許されたのである。官符によるとその額は次の通りであった。

 壬生吉志継成  年一九

  調庸料の布 四〇端二丈一尺

  中男作物の紙 八〇張

 壬生吉志真成  年一三

  調庸料の布 四〇端二丈一尺

  中男作物の紙 百六〇張

 調庸負担の年令は、天平宝字元・二年(七五七~八)の勅で、正丁に達した二二歳から六四歳までの間とされ、但し六〇~六四歳は老丁とされ二分の一となるので、通算して二二~五九歳までが三八年間、六〇~六四歳までが二・五年間、合計四〇・五年間となる。この期間を正丁が一年間に負担する調庸布を一端として計算すると四〇端半となり官符の数値と一致する。これに兄弟は中男であるから継成の場合その年は納付したとして二〇~二一歳分の二年間、一年間に納付する紙の量は四〇張であるから二年分で八〇張、真成は四年分の一六〇張を納めることになる。これで兄弟は一生の間、調庸免除となったが、租は免除されず、また官符でも「徭は例によりてこれを行へ」として雑徭負担について念を押している。

 このほか「雑徭」として正丁一年六〇日の間、国司の命に従って水利土木工事や国衙の雑用を行う労役を課された。国司は必要がなくても期限一杯農民を徴発し、私田を耕営させるなど私利のために駆使したので農民を苦しめ、その矛盾のために天平宝字元年には半減された。これに凶年に備えて戸別に毎年一定量の粟を納めさせた「義倉」、稲を強制的に貸しつけた「出挙」、五〇戸に二丁の割合で三年間中央官庁の雑役に服した「仕丁」、三丁に一丁の割合で徴兵した「兵役」(後述)等の負担が農民に重くのしかかり生活を疲弊に導いた。