条里制の施行

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律令体制の根幹となる班田収授法は、六歳以上の男女に一定面積の口分田を六年毎に班給して、農民から一定の賦租を納入させ地方行政の財源とした。この口分田の班給事務を円滑に実施するには班田図籍が必要とされた。そこで朝廷ではあらかじめ土地を丈量し、碁盤目状に正しく区画した地割制度である条里制を実施した。

 まず耕地を六町平方(一町は約一〇九メートル)に区切ってその土地を「里(り)」と称し、この里をさらに縦横六等分して三六区画とし、その一区画の一町四方を「坪」と称した。したがって一里は三六坪からなる。一坪はさらに十等分されて一段(約九・九アール)とし、その区分法には長地型(短冊型、六間×六〇間)と半折型(一二間×三〇間)があった。そして坪を数えるときは一の坪、二の坪と順次数えて三六坪まで名称をつけた。地割の方向は東西南北を原則としていたので、里の配列は南北を一条、二条、三条と数え、東西を一里、二里、三里と数えた。これにより田地の位置は、何条何里何坪で表わされ明確にその位置を示すことができ、ここから条里制の名が生じた。この様な条里制地割は班田制の行われた奈良時代から平安初期にかけて、幾内はもちろん、日本全国各地で行われ、関東地方では国衙の近くに大規模な条里が施行され、一般に地方行政の貫徹した地域に多く見られた。

 県内では八世紀頃より実施されたと思われるが、その後土地制度の崩壊と共に実施されなくなった。この地割は便利であったためか、各地でかなり後まで遺構を残していた。県内の条量遺構は地名や条里様地割によってその遺跡を見出すことができ、なかでも最大の条里様地割が残っているところは熊谷市を中心とした地域で、熊谷の東方の中条、川上、大塚、平戸、戸出、佐谷田、池上、上池守、小敷田、犬塚、斎条にかけて、熊谷の西方は別府、奈良、太田、明戸、長井、秦一帯にみられる。熊谷市の南方にある大里村にも条里地割がみられ、これは『九条家延喜式裏文書』に出てくる第11表の大里郡条里坪付に合致する地域といわれる。たとえば、楊井里は楊井郷に当り、郡家里は郡家郷(久下村)、牧津里は万吉、高田里は旧市田村小泉村近の小字名、麹里は小泉に当てることができ、これを五万分の一地図に置いて復原すると無理なくあてはめることができる。但し近世初期に現在の荒川新河道が開かれたためか北半が失なわれている。おそらくこれらの条里地帯は、ほぼ荒川扇状地の湧水地帯にあたり、扇状地末端の肥沃な土地とからみあって、上代における水田経営の理想的なところだったのであろう。また付近には集落址や古墳群も見られ古代集落の立地が条里遺構の近傍にあったことを示している。

第11表 武蔵国大里郡坪付
四条 五条 六条 七条 八条 九条
富久良里 □□麻里 牧津里 勾田里 川辺里
粟生里 郡家里 楊井里 勾田里 桑田里 麹日里
田作所里 中嶋里 新生里 桑田里 槽田里
速津里 高田里 新□里 麹里 片崩里
箭田里 □□里 青山里 榎田里 漆田里
牧川里 鵞田里 三鵞里 粟籠里 物部里
石井里 幡田里 隴里 下榎里 柱田里
楊田里 楊師里 宥田里 幢田里
川俣里 新野里 監里
川辺里 川辺里

 このほか児玉郡でも、児玉町、美里村にかけて条里遺跡が見られ、美里には十条という地名も残っていて条里遺構として有名である。沼上、小茂田、吉田林などには特に良く遺構が保存されていて、那珂郡の条里と伝えられ、児玉町から西方の神川村にかけての遺構は旧児玉郡の条里とされている。川越市付近では小ヶ谷、豊田本、平塚付近に局部的に残っており、坂戸町の入西、高麗川と越辺川にはさまれたところにもみごとな条里地割がみられる。東松山の高坂付近には都幾川の河岸段丘上に小規模な条里がみられる。

 荒川の流域では、大宮市三条町、島根、浦和市大久保にかけ条里様地割が残っており、中川、古利根川沿岸では後述のように越谷市四条付近に条里様地割がみられ、四条から八条までは割合いに高い自然堤防状をなしているので、奥東京湾の後退にさいしていちはやく陸化したところに条里を施行したのではないかと推定される。このように県内の条里地割のあるところをみると、圧倒的に分布の多いところは大里郡、児玉郡にかけてで、次が比企郡となっている。東部低地帯の南埼玉郡には越谷を除くとほとんどみとめられない。これはこの地域が、かつて奥東京湾に侵されたために開発がおくれ、また利根・荒川をはじめ諸河川の乱流によって表土が堆積し埋没したため、条里様地割が見えないのであろう。最近、従来存在しないといわれていた秩父市郊外からも条里遺構が発見され、今後の調査によってはさらに発見される可能性を示している。