条里遺構は大里郡大里村の条里のように文献のあるものは別として、一般に田畑の道路、水路等の地形区画(地割)や地名等の遺存から確認できると言われている。市域の条里については『埼玉県史』に南埼玉郡の南部地域は古利根川、元荒川、綾瀬川の諸河川が貫流し地形変更を生じているが、旧大相模村大字四条、八条村大字八条には条里様地割も見られ、かつ、遺存地名として前記のほかに増森村字三丁野、出羽村大字四丁野、潮止村大字二丁目、桜井村大字間久里、同大里等の名を挙げその存在を主張している。さらにこの条里を北足立郡の条里との関連でとらえ、大宮から浦和にかけての条里の一部としている。これは旧植水村大字三条町より東に延長して、ちょうど六里の所に増森村三丁野があり、その南方に四条、さらに南方二四~五町の所に八条が位置することから、条里の起点を現在の荒川沿岸において、条は西より東に至ったと想定したのである。この説によると条里は郡をまたがって施行されたということになり、他に類例を見ない。条里は通常郡単位で施行され、またその地域も比較的開発の便なところが選ばれているので、二郡にまたがって施行された可能性は少ないのである。ところで市域に残っている条里様地割を野村康子氏の「埼玉県越谷市の条里」(埼玉研究二一号)によってみると次の通りである。
条里遺構は、この図に見られるように南百(なんど)から千疋にかけて、元荒川と古利根川が合流した以南に、よくその痕跡をとどめている。これらの地域は、古利根川および元荒川の流路形態が低湿地域としてはきわめて直線状をとっており、自然堤防もこれに沿って直線的に形成されている。しかも分支流の痕跡もほとんど認められず、また水田面との比高も一~二メートルの高まりを示し、古くより安定した河道であって条里様地割も見田方、千疋、別府などの集落がのっている自然堤防をさけて、自然堤防べりからその後背湿地に及んでいる。これは二万五千分の一の地形図でもわかるように、道路や水路にその面影を残しており、比較的はっきりした型で残っているのは、別府・千疋・柿ノ木付近である。ただし条里の東西の区画はわりに残存しているが、南北の区画が不明瞭であり、見田方・南百付近はその保存状態が悪く、土地区画もはっきりしない。しかも河川の氾濫によるためか、坪内において地割の大きさは一定せず乱れている。八条付近については耕地整理のため遺構はみられない。しかし八条のすぐ南の幸宮付近には道路や水路などに条里の面影をとどめている。また条里様土地区画の南北の線―見田方・南百間―のはっきりしている見田方には古墳末期の「見田方遺跡」が発掘され、その後野与党の支族大相模氏が開発根本領主となっているので耕地として比較的安定したところであり、条里が施行された可能性は十分に認められる。しかし、坪内に数詞の残っている地名が見当らず、坪付の配列を復原できないのが残念である。
これらの条里遺構は古利根川に沿って帯状に分布し、地割の比較的明瞭なのは、待田・深田・古通地域で、図のように半折型ないし半折型に近い地割をとっている。その他の地域は、形状の乱れが著しく地割の大きさは一定していない。