帰化人の移住

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武蔵野に移住し開発を進めた帰化人は、主として朝鮮半島から渡来した高麗・新羅・百済の人々で、唐の勢力が朝鮮を侵したために我国へ投化してきた亡命遺民である。朝廷ではこれらの帰化人を畿内から遠く離れた未開後進諸国に配置し、特に比較的土地の余裕のあった関東へは、多数の人々を移住させた。

 武蔵国に帰化人が配されたのは、『日本書紀』天武十三年(六八五)五月条に「化来の百済の僧尼及び俗人、男女并せて廿三人、皆武蔵国に安置する」とあって、七世紀後半頃から集団的に移住されたことをのべている。この記述は武蔵国はもとより関東への帰化人移住のもっとも古い史料である。これらの帰化人の生活状態は、同書の持統元年(六八七)四月条によると、「筑紫大宰、投化の新羅僧尼及び百姓の男女廿二人を献ずる。武蔵国に居らしめ、田を賦(たま)ひ稟を受(たま)ひて、生業を安からしむ」とあって、耕地と食糧を賜給され農桑を基本とした生業安定策がとられていたことがわかる。続いて同四年には、新羅人の韓奈末許満(かんなまこま)ら一二人が武蔵に配され、霊亀二年(七一六)には、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヵ国に在住していた高麗人一七九九人を武蔵に移して、高麗郡を新たに設置した。帰化人による新郡設置は、関東では上野国ですでに元明天皇以前に甘楽郡が置かれており、続いて和銅四年(七一一)には、多胡郡、武蔵国では高麗郡設置後四二年たった天平宝字二年(七五八)に、新羅の僧俗七四人を武蔵の閑地に移して、新羅郡が置かれ、これがのちに新座郡となった。

 高麗郡は、外秩父丘陵地帯の高麗川・名栗川・吾野川流域一帯の地で、高麗本郷(入間郡日高町)が中心の地といわれている。首長は、高麗王若光と伝え、五十嵐力校閲の『高麗神社と高麗郷』によると、若光は七世紀中葉亡国の悲運に際会して我国に投化し、東海を航して相模湾に入り大磯に上陸したという。そして居地を化粧坂から花水橋に至る大磯町高麗の地に営み、まもなく朝廷より従五位下に叙され、さらに大宝三年(七〇三)王(コキシ=古代朝鮮語の姓の一)の姓を賜わった。次いで霊亀二年高麗郡設置に際し大領に任ぜられ、この地に赴いて来たのである。大磯では邑人が王の徳を慕って高来(麗)神社を祀り、隔年七年の大祭には今でも王の渡来記念の祝歌を唱和するという。

 入間郡日高町新堀大宮には、この若光王を祀り高麗郷の鎮守となっている高麗神社が鎮座している。中島利一郎の『日本地名学辞典』によれば、新堀とは朝鮮語のブル(火)ボル(伐)から村邑の意で、大宮とはクナウ・クンナウ(大国)に由来するとし、新堀大宮とは「新しい村邑」「一つの国の中心」という意味をもつという。この高麗郷に高麗人は安住の地を得て焼畑農法を導入して曠野を開き、農蚕を勧め、仏教を弘通し、窯業を伝えた。新堀に近い高岡には、古い布目瓦や須恵器を出土した窯跡があり、ここには鉱滓も発見されていて、窯が「タタラ」として使用されていたことを示し、武蔵野開発の鉄製農具はここで作られたともいわれている。昭和三十年、三上次男氏の発掘調査した窯跡は、入口幅三〇センチメートル、胴部最大幅一五〇センチメートル、長さ五メートルの規模を有し、傾斜角が二〇度の登り窯であったという。

 高麗神社は別名大宮神社、白髭神社と呼ばれるが、これは鎮座の地名と、里人の口碑に「高麗王は其髭白かりき、故に高麗明神も一に白髭明神と称へ奉る」の言い伝えによる。白髭神社は高麗郡はもとより、入間、秩父、多摩の諸郡におよび、王の威徳と高麗文化の伝播の範囲を示している。また若光の三子聖雲の開基と伝える高麗山勝楽寺の山門の横には、若光の墓といわれている朝鮮様式の多重塔がある。現在、高麗家は王より数えて五十九代目の高麗澄雄氏が高麗神社の祠官を継ぎ、若光が故国より伝来したという数々の重宝を伝えている。

高麗神社

 若光等が高麗郷にあって武蔵野開発に尽したのに対し、都に出て立身出世し、一族の名声を挙げた高麗福信等の名も忘れることはできない。福信は高麗郡の出身で、本姓は背奈公といった。祖父福徳はかつて店将李勣に従って平壌城を攻略し、のち我国に帰化し武蔵国に居住した。父の名は不明だが、伯父背奈行文は当代の宿儒の一人として世に聞えた人物である。

 少年の頃、伯父行文に従って上京した福信は、相撲巧者として敵する者なく、遂にその評判が内裏に聞えて内竪所に召され、右衛士大志、いわば親衛隊員になった。以後聖武天皇の寵を得て官職を進め、天平勝宝二年(七五〇)の時、従四位上紫微少弼兼中衛少将の地位にあり、高麗(巨万)朝臣の姓を授けられ、同八年の東大寺献物帳には武蔵守として署名をしている。この後も福信は兼任で二度、合わせて三回武蔵守となっており、位階も非参議従三位にまで昇叙し、このことは当時でもきわめて破格なことであった。のち高倉朝臣と改姓している。この福信のほか天平宝字五年(七六一)一族の高麗朝臣大山が武蔵介に、宝亀九年(七七八)には福信の子の石麻呂が同様武蔵介に任命されており、高麗氏の中央における勢威を窺うことができる。

 この高麗人と共に武蔵開発に貢献した新羅人は、天平宝字二年(七五八)僧尼三四人、男女四〇人が武蔵の閑地に移され新羅郡を立てた。これより以前新羅人が武蔵国に帰住したことは前に述べたが、さらに『続日本紀』天平五年(七三三)六月条を見ると「武蔵国埼玉郡の新羅人、徳師等男女五三人を請により金姓と為す」とあって、この頃すでに埼玉郡に新羅人が配されていたことを伝えている。その地がどこであるかについては明かでない。

 新羅郡は『延喜式』には「新座(にいくら)郡」とあるので建郡後まもなく郡名を改称したと思われる。

 そこには新羅の転訛といわれる志木(志羅木の略)、白子、新倉などの地名が残っており、今でも武蔵野の面影を残している新座市平林寺には、北朝鮮の焼畑(火田)農法の名残りといわれる野火止塚がある。この野火止の台地は、荒燥の地で水利の便が悪く、開発には不利の地であった。このような地に帰化人を配し、すぐれた農耕技術によって荒地を開発し、あわせて産業の振興を図ったのであった。