地方軍団

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古代の農民は、租・庸・調・雑徭及び出挙などの納税義務のほかに、兵役の義務を課せられ、それには労働力の主体となる壮丁が充てられたので、農民生活を非常に苦しめた。兵役は大別して、各地の軍団に入る者、衛士、防人に差点される者に分かれ、なかでももっとも重いとされたのは防人であった。それに武総地方は地理的に蝦夷地に近かったので、食糧、兵器の供給や兵士の発遣が重なり人的物的に大きな負担を強いられた。

 地方軍団の起源は大化改新の年(六四五)に求められ、辺境以外の諸国郡の兵器を収公して曠閑の地に新設された兵庫に収蔵し、翌年その傍らに護衛の兵を置いた事に始まるという。そして持統朝にはじめて全国正丁の四分の一を差点して兵士とすることを定め、文武朝には軍団制として整備された。しかし、この頃の武総地方の状況はよくわからない。

 令制では、正丁の三分の一を徴発し隣接数郡をまとめて一軍団を編成し、ここに兵士を交替で召集し、訓練を施すこととなっていたが、実際にはその通り行われなかったらしい。軍団は兵部省の管轄のもとに国司が統轄し、指揮者は在地の豪族や有力者から選ばれた大毅・小毅などがあたった。彼等は軍事訓練よりも、自己の私有地耕作に兵士を使役したので、兵士は全く戦闘の役に立たないというのが実状であった。兵士は雑徭を免ぜられたが、調庸負担は免れず、加えて武器や食糧に至るまで自弁し、前述のように国司や軍団幹部の私役に駆使されたので課役負担に堪えられず逃亡者が統出した。このため本来の機能を発揮しなかったので、延暦十一年(七九二)健児(こんでい)制の採用によって軍団制は停止された。

 武蔵国では多磨軍団以外は不明であるが、天平宝字八年(七六四)恵美押勝の乱に際し、入間郡出身の豪族物部広成と足立郡出身の豪族丈部不破麻呂が押勝鎮定軍に従っているのは、おそらく管下軍団の兵士を率いて活躍したものとみられる。『埼玉県史』では大里郡吉岡村揚井(現熊谷市)付近に大里地方軍団、児玉郡秩父村広木(現美里村)付近に児玉地方軍団の遺跡が認められるといっているが、確証はない。埼玉郡の軍団についても不明である。

 なお軍団制の廃止と引き替えに置かれた健児は郡司の子弟から選抜され、国内の兵庫や鈴蔵、国府の警備に当った。『類聚三代格』には武蔵の健児は一〇五人とあるが、他国とのバランスからみて一五〇人の誤記であろう。下総国も一五〇人であった。彼等は六組に分かれ半月毎に交替勤務したというから一組は二五人に過ぎず国内の治安維持には不十分であった。