衛士と防人

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衛士とは令制に基づいて諸国軍団から選ばれて宮門の警備その他の雑役に従った兵士たちをいう。彼等は衛門府や左右衛士府に配属され、任期一年と定められていたが、実際には守られず長期間使役されたため脱走者が多かった。そのため養老六年(七二二)から三年に延長し、上番中雑徭は免除されたが、防人に次いで負担過重で農民疲弊の原因となった。上番中は厳重な統制下に置かれ、非番といえども三〇里以遠の地に行くことを禁じられた。父母の死にも帰郷は許されず、万一逃走した時は、京と国衙の双方から捜索の手がのばされた。『更級日記』には、武蔵出身の衛士が帝の姫と共に生国に逃げ帰り、幸福に暮したという竹芝寺伝説を伝えているが、これは武蔵国から派遣された衛士が、その重役を免れるために逃げ帰った者のあったことを示したものであろう。

 これに対し、主として東国から専遣されて、筑紫・壱岐・対馬など北九州沿岸の守備に当たった防人は、その創置の時期は明確でないが、初見史料は大化二年(六四六)改新詔である。大化以前は、夷守・島守などと呼ばれ主として近傍の国造軍によっていたと思われるが、天智二年(六六三)に朝鮮半島に送った百済救援の大軍が白村江で大敗したため大陸情勢の緊迫化に対処して、急遽西辺防備の充実に迫られ、翌年朝廷が壱岐・対馬・筑紫方面に防人を配置した。

 令制によれば防人は諸国の正丁から選ばれることになっていたが、実際には壬申の乱以来、東国が天皇家の親衛軍としての性格をもっていたため、もっぱら東国兵が充てられた。彼らは三年交替で辺境守備に当たり、毎年二月、三分の一を交替すると定められていたが、京に上番する衛士が一年間だったのに比べ、在番がきわめて長期にわたっていた。各地から差点された兵士は弓矢・太刀など所定の武器と、難波津までの食糧を自弁せねばならず、また、在地から難波津に至る間は往復とも上番期間に含まれず、交替も確立していなかったので、農民はその重圧に苦しんだ。このため、戸内で一人兵士をとられるとその戸は窮亡するといわれ、農民の怨嗟の声は防人歌に多数窺うことができる。差点された兵士は国司(部領使(ことりづかい))に率いられて難波津(大阪)にいたり、ここで兵部省の支配下に属して、はじめて公粮が支給された。任地の勤務は三ヵ月交替で一〇日に一日の休暇が与えられ、軍務のかたわら田地を耕して食糧を自給した。

 天平十年(七三八)の『駿河国正税帳』には、この年筑紫から帰国して駿河国を通過した防人の数を記しているが、それによると伊豆二二人、甲斐三九人、相模二五〇人、安房三三人、上総二二三人、下総二七〇人、常陸二六五人、合計一〇八二人となっている。国別の防人数の不均衡は国の大小のほか、史料が防人数を網羅していず、たとえば右の国々は東海道諸国でありながら万葉集に見られる遠江・駿河二国を欠いているので、ほぼ一国平均の防人数を二〇〇~三〇〇人と推定してよかろう。これに東山道諸国の信濃・上野・武蔵・下野四国を加えた総数は、ほぼ二五〇〇~三〇〇〇人前後となろう。この数は同じ天平十年、帰国する防人に対し食糧と塩を供給したことを記した『筑後国正税帳』、『周防国正税帳』より推算した防人数二五〇〇人前後と合致する。こうしてみると、防人はそのほとんどが東国から派遣されていたことが明らかとなる。

 次に防人軍の構造をみると、岸俊男氏(「防人考」『万葉集大成一一』所収)は万葉集防人歌の左注を検討し、そこに国造軍の遺制がみられ、基本的には国造丁(国造)―助丁―主帳丁(帳丁・主帳)―(火長)―上丁(防人)の関係があると指摘している。参考までに各国の防人歌の左注を整理すると第12表のようになり、基本線は上総国に明瞭である。

第12表 防人歌配列順序
遠江 国造丁1 主帳丁1 防人5
相模 助丁1 上丁1
駿河 上丁1 助丁1 ( )8
上総 国造丁1 父1 助丁1 帳丁1 上丁9
常陸 ( )4 上丁1 助丁1 ( )1
1人2首3人        長歌
下野 火長3 上丁8
下総 助丁1 ( )10
信濃 国造1 主帳1 ( )1
上野 助丁1 ( )3
武蔵 上丁(妻)1 助丁1 主帳1 上丁5
                妻4

 ( )は,丁の註記のない者を示す。

 次いで氏姓の面から検討すると、第13表のように八〇名中国造系と思われる者が一〇名、舎人二名、このうち国造丁に属する者が二名、助丁が四名、他は上丁であり、有姓は川原・朝倉・川上・津守の四姓(名)のみで、残り八〇パーセントは部民出身である。このことから岸氏の指摘するように旧国造層や舎人を指揮者とし、その縁者並びに有姓者を中核とし、貧しい農民の出身者である部民を主構成員とする防人集団を想定できる。

第13表 防人出自別一覧
国名 人数 部民 有姓 国造系 舎人
遠江 7 6 1
駿河 10 8 1 1
相模 3 1 2
上総 12 9 3
下総 11 9 2
常陸 7 7
信濃 3 2 1
上野 4 2 1 1
下野 11 9 2
武蔵 12 11 1
合計 80 64 4 10 2

 天平勝宝七年(七五五)武蔵国より詠進された防人歌は、部領使安曇宿禰三国によってまとめられ、合計二〇首が大伴家持の手に進められたが、家持の撰によって採録されたものは一二首であった。下総国は二二首進められ、ちょうど半分の一一首が採録されている。作者は武蔵国の場合、(1)上丁那珂郡檜前舎人石前の妻の大伴部真足女(児玉郡美里村)、(2)助丁秩父郡大伴部少歳(秩父郡吉田町)、(3)(4)主帳荏原郡物部歳徳と妻の椋椅部刀自売(東京都区内)、(5)豊島郡上丁椋椅部荒虫の妻の宇治部黒女(同上)、(6)荏原郡上丁物部広足(同上)、(7)(8)橘樹郡上丁物部真根と妻の椋椅部弟女(川崎もしくは横浜市)、(9)(10)都筑郡上丁服部於由と妻の服部呰女(横浜市)、(11)(12)埼玉郡上丁藤原部等母麻呂と妻の物部刀自売の一二名である。

 埼玉郡からは藤原部等母麻呂が差点されたが、藤原部は允恭妃衣通郎姫の藤原宮よりとった名代である。一族は埼玉古墳群とも関係があるのではないかといわれ、その故地として行田市若小玉の八幡山古墳の東隅に等母麻呂夫妻の防人歌碑が建てられている。越谷周辺からもおそらく防人として筑紫に赴いた農民があったに違いない。