蝦夷征討

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「西の防人、東の征夷」と古代国家の二大強制労働といわれた防人差点と蝦夷征討は、苛酷な徴税と賦役に悩む武総の農民を一層苦しめた。防人制は八世紀半ば頃には停止されたが、代って蝦夷地経営のために大量の物質や軍兵を供給せねばならなくなったのである。

 蝦夷征討事業の本格的開始は、斉明天皇四年(六五八)の阿部比羅夫による征夷事業であるが、八世紀に入るとその事業もかなり進み、〝まつろわぬ蝦夷〟を北辺に追いやって和銅五年(七一二)には出羽国を建て、まもなく陸奥に多賀城を築き、警備ラインを北に進めていった。そして食糧や武器を補充して警備を強化する一方、その背後には坂東諸国の人々を「柵戸(きのへ)」として送り込み開拓に当らせ、帰降した蝦夷には衣食を給して生活の安定を図り、進んでは佐伯部としたり、内国の諸地域に移住させて同化を促進した。

 柵戸は城柵によって安全を保障されたが、みずからもまた武装して生活を守る屯田兵的性格をもっていた。奈良朝初期は富民が柵戸として配され蝦夷経営に主要な役割を果したが、後期になると犯罪人や浮浪人を移したりして蝦夷経営を一層むずかしくした。武総の人々がどれほど蝦夷地に送りこまれたかを文献上から見ると、まず霊亀元年(七一五)武蔵等六ヵ国の富民一〇〇〇戸を陸奥に配置し、養老三年(七一九)東海・東山・北陸三道の民三〇〇戸を出羽柵に配置、同六年諸国(主として坂東地方と思われる)の柵戸一〇〇〇人を陸奥鎮所に配置、天平宝字三年(七五九)坂東八国・越前等四国の浮浪人二〇〇〇人を雄勝柵戸に移し、神護景雲三年(七六九)陸奥の桃生・伊治二城が完成し坂東の百姓を移配、延暦十五年(七九六)武蔵等八国の人民九〇〇〇人を陸奥伊治城に移送、同二十一年武蔵・下総等一〇ヵ国の浮浪民四〇〇〇人を陸奥胆沢城に移すなど、その数は九〇年間弱で合計一万八二〇〇人、他国の記述分も含めると二万人を越え、想像以上の人々が蝦夷経営のために派遣されたことがわかる。

 これに加えて第14表のような兵員・軍需物質の徴発が行われ、宝亀五年(七七四)以降蝦夷の反乱が激化すると、その負担も年々過重になった。桓武天皇の時には平安京遷都と征夷が二大事業に挙げられ、前後三回にわたって実施された。特に延暦八年(七八九)の北上川の戦いでは、武蔵国入間郡出身で征東副使となっていた入間広成や〓嶋墨縄など東国出身の武将たちが胆沢(いざわ)の族長大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)との決戦を避けて渡河部隊を見殺しにし大敗してしまった。この後同二十年坂上田村麻呂が四万の兵をもって辛うじて平定に成功したのである。県内にもこの時坂上田村麻呂が征夷の祈願をしたと伝える社寺が多数あるが、これはとりも直さず武蔵の民衆の蝦夷鎮定に対する願望であったに違いない。

第14表 征夷のため武蔵・下総国より徴発した兵員・物質一覧
年号 西暦 被徴発国 徴発先 徴発兵員軍需物質
和銅2年 709 諸国 出羽柵 兵器
天平9年 737 武蔵・下総等6国 陸奥 騎兵100人
天平宝字2年 758 坂東8国 騎兵・鎮兵・役夫8180人
〃 3年 759 武蔵・下総・等7国 雄勝桃生城 軍士器仗
宝亀6年 775 武蔵等4国 出羽 鎮兵996人
〃 7年 776 下総等4国 船50隻
〃 8年 777 武蔵・下総等5国 出羽 甲200領
〃11年 780 東海・東山諸国 陸奥 坂東兵士
襖4000領
坂東諸国,能登等3国 糒3万斛
下総・常陸 陸奥 糒1万6000斛
天応1年 781 武蔵・下総等6国 陸奥 穀10万斛
延暦7年 788 東海・東山・北陸 陸奥
糒5万8000斛
東海・東山,坂東諸国 陸奥多賀城 歩騎5万2800余人
革甲2000領
延暦9年 790 東海・東山 糒14万斛
延暦10年 791 諸国 鉄甲3000領
東海・東山諸国 征箭3万4500余具
坂東諸国 糒12万斛
延暦23年 804 武蔵・下総等7国 中山柵 糒1万4315斛
米9685斛
元慶2年 878 武蔵・下総等11国 出羽 兵士290人