大化改新後、地方制度の徹底がめざされると、朝廷は中央と地方を連絡する駅路の整備を急ぎ、各地に駅が設置された。武蔵国はもと東山道に属していたが、これは、当時、武蔵南部には諸河川が乱流して交通の難所となっており、また、東海道が相模の三浦半島から海路安房に通じ、上総・下総・常陸と連絡していたためである。一説には、当時、武蔵国の行政的中心が大宮付近にあって、官使が往復するに際し、東海道より東山道による方が便利であったためともいわれる。ところが、その後、国府が多摩郡小野郷(府中)に設置されると官道は東海道の方が便利となり、宝亀二年(七七一)十月、改めて武蔵国は東海道に所属替えとなった。しかしこれより以前、武蔵から相模、あるいは下総に通じていた準官道として東海道も開けていたと思われ、それを利用していたことは、天平勝宝七年(七五五)防人として難波に向かった埼玉郡上丁藤原部等母麿とその妻の物部刀自売の詠んだ歌の中に「足柄の御坂」の語があることからもわかる。
ところで、武蔵が東海道に新属する以前の官道について、参考となる記述が『続日本紀』に二つ見える。
(一)は、神護景雲二年(七六八)三月一日条の東海道巡察使紀朝臣広名の奏言であって、それによると下総国の井上・浮嶋・河曲の三駅と、武蔵国の乗瀦・豊島の二駅は、東海道、東山道両方の道を受けて使節の往来が頻繁であったため、駅馬を中路に準じて十匹に増置したいと奏請して許可された記述である。
(二)は、宝亀二年(七七一)十月二十七日条の武蔵国を東山道から東海道へ転属したときの太政官奏である。この奏文によると、武蔵国は東山道に属していたが、東海道の連絡をもうけ公使の往来が繁くやりきれなかった。それに東山道は上野から下野へ入るには、上野新田駅(太田市)より下野足利駅に通ずれば直通で便路である。ところが途中、武蔵国を経由するため大きく迂回し、上野国新田駅から南下して邑楽郡に入りさらに南下して五箇駅を経て武蔵府中に至り、用務が終るともと来た道を北上して下野国府へ向う。ところが、東海道は、相模国夷参(いさま)駅から四駅で下総に達し往還の便がよい。そこで、武蔵国を東海道に転属させようというのである。
右の記事から武蔵が宝亀二年以降東海道へ転属したこと、武蔵国府への官道は上野国邑楽郡から五箇駅を経て武蔵国に入っていたこと、下野への道は同じ道をもどって上野に入り下野に入ったこと、東海道は相模夷参駅から中間の四駅を経て下総に達し、それが武蔵を通過したこと、宝亀二年以降上野から武蔵国府に至る道は官道から外され五駅が廃されたらしいことなどがわかる。そして、延暦二十四年(八〇五)には下総国の印幡郡鳥取駅・埴生郡山方駅・香取郡真敷・荒海等の駅が不要の故をもって廃され、下総の官道は大幅に改められた。次いで三〇年後の承和二年(八三五)武蔵・下総国境の住田河と下総の太日河の渡船が、その地が要路であるにも拘らず渡船が少なく、貢調にも差支えるとして、従来の四艘から六艘に増加した。
ところで駅路の根本史料は一〇世紀初頭編纂された『延喜式』中の「兵部式」に列挙された全国の駅名である。これによると相模・武蔵・下総は次の通りであった。
相模国駅馬 坂本廿二疋、小総・箕輪・浜田各十二疋
武蔵国駅馬 店屋・小高・大井・豊島各十疋
下総国駅馬 井上十疋、浮島・河曲各五疋、茜津・於賦各十疋
これによると東海道は、相模の浜田から武蔵に入り、店屋―小高―大井―豊島の四駅を通って住田川を渡り、下総国に入って井上駅を経由し太日河を渡り下総国府(市川)に入った。そこから茜津(松戸)、於賦(布施)を経て常陸に入ったのである(浮島・河曲の両駅は駅馬の数からみて支道と推定される)。
古代武蔵の官道は『続日本紀』や『延喜式』等の記述から復原作業が坂本太郎氏(「乗瀦駅の所在について」『日本古代史の基礎的研究下』所収)や小野文雄氏(『大宮市史二』)等をはじめ、多数の所説がある。しかし、それらに掲げてある駅名を現在のどの地にあてるかとなると容易に決めがたいものがある。たとえば宝亀二年の太政官奏に見える五箇駅についても群馬県邑楽郡五箇村の地を指すのか、五ヵ所の駅を意味するのか明らかでなく、乗瀦・豊島両駅については延喜式の四駅と如何に関係させるかによって大きく意見の分れるところである。たとえば県内に関係のある乗瀦駅についてみても坂本氏は都内杉並区天沼の地に比定し、小野氏は大宮市天沼の地にあてている。いずれが是かにわかに断定できないが、ここでは越谷に近い大宮説をとる小野氏の交通路図を参考までに掲げ、今後の研究にまちたいと思う。なお、坂本氏は一つの考えとして武蔵府中―乗瀦―豊島―井上―河曲の路線を古東海道、相模夷参(或いは浜田)―店屋―小高―大井―豊島―下総国井上―茜津―於賦の路線を新東海道とする「東海道の新古二様の路線」説を提案しているが首肯すべきだろう。
このほか各郡衙と国府を結ぶ準官道も開かれていたと思われるが明らかでなく、おそらく河川のやや高い自然堤防や台地、山麓沿いに通じていたと思われる。天長十年(八三三)武蔵介当宗宿禰家主等六人が、武蔵国は管内が広く公私の行路者で飢病する者が多かったので、救護のために悲田所を設置したいとしているが、これは現在の所沢市久米付近といわれており、おそらく多摩の国府から入間郡へ通ずる道だと思われる。万葉集にも「入間路の おおやが原」(三三七八)とうたった歌が見える。