公地公民制に基づく古代の律令体制は、八世紀に入ると早くも矛盾を露呈し、後の土地私有制への契機となった三世一身の法や、墾田永代私有令の制定によってもろくも崩れ去っていった。この結果財力と労働力を広汎に所有していた大社寺や有力貴族によって墾田の開発が進められ、やがてそれが荘園化して律令体制そのものを崩壊に導いていった。この墾田開発には在地豪族層も加わり、彼等の多くは国造の系譜を引く大化前代の名族で、律令制のもとでは郡司に選任され、また郡司職分田が与えられるなどさまざま特権を有していたから、それらの力を背景にして墾田増殖につとめ、さらに富力を蓄えていった。
その富強ぶりを史料から二~三例紹介してみると、神護景雲三年(七六九)入間郡の豪族大伴部直赤男は、奈良西大寺に商布一五〇〇端、稲七万四〇〇〇束、墾田四〇町歩、林六〇町歩という巨額な財物と土地を寄進し、宝亀八年(七七七)赤男の没後外従五位下を追贈されているし(『続日本紀』)、同年埼玉郡の私部(きさいべ)浜人・広成父子も、西大寺に布一五〇〇疋、稲六万束を寄進し、従五位上に叙されたと伝えている(『私部氏系図』)。さらに富強ぶりを伝えているのは男衾郡の大領壬生吉志福正で、承和八年(八四一)に福正は、子息二人の一生涯納入すべき調庸を全額前納し、さらに四年後の同十二年には神火で焼失した武蔵国分寺の七層塔を独力で再建寄進したのである(『類聚三代格』『続日本後紀』)。
これらのことは一見、仏教信仰に対する結縁(けちえん)や、福正が述べているように「聖朝を奉ぜんがため」の篤志と考えられるが、実情は、奈良中期以降地方では墾田の開発や買得によって豪族層の成長が目立ち、そのため地域の権力構造に変化を生じて、終身官であり、かつ豪族の政治的経済的欲望を充足させる手段としての郡司職をめぐって豪族間に熾烈な戦いが展開されていたこと、並びに財物寄進による叙位によって租税免除の特権と、在地の声望を得ることにあった。
この地方豪族の活躍ぶりについては武蔵国の代表的豪族として中央の官職を得た丈部不破麻呂、物部直広成の二人が著名なので、両者をめぐる状況について詳しく紹介してみよう。