村落と農民(下総国葛飾郡大嶋郷戸籍)

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律令時代の農民生活については文献が乏しく、主として考古遺跡によって想定するほかない。市域では前述のように「見田方遺跡」が発掘され、六―七世紀頃の古代人の生活を窺うことができるが、その後のことについては遺跡もなくよく知られていない。

 そこで最近発掘された県内の古代集落址(川越小仙波遺跡、大里郡岡部町白川遺跡、加須市水深遺跡など)によってみると、明らかに集落の形態が見られ、白山遺跡では八六戸の住居跡を確認している。個々の住居址は、地下を三〇センチメートルほど掘りくぼめた一辺四~五メートルの方形の竪穴式住居址であり、床に藁とか干草を敷いて寝所としていた。屋根は地上近くまでカヤで葺きおろし、住居の周囲に壁をめぐらし、外には雨の流入を防ぐために堀がめぐらされていた。家の中の一隅にはかまどが設けられ、炊事や暖房、照明など多目的に利用されていた。かまどの近くには食糧の貯蔵穴が掘られ、道具は土師器(はじき)で、坏(つき)の類が多くかめは少ない。大陸からもたらされた須恵器の出土例は稀で、狭山市今宿遺跡では出土器の八割までが須恵器だったことから、在来農民の遺跡ではなく八世紀に集団移住した高麗の帰化人の遺跡であろうともいわれている。

 土師器は薄手でロクロを使用して製作されており、大宮の吉野原遺跡からは鉄製の鎌と鍬先が出土し、一般農民にまで鉄製農具が普及していたことを物語っている。また紡錘車も発掘され、白山遺跡出土の紡錘車には中心に鉄が使用してあった。これを利用して糸紡ぎをし、調庸布として貢納したり、自家用としたりしたのであろう。村には稲を収納した高床式の建物も見られ、蓄積を窺わせる。農民は口分田を与えられ、一定量の租税、賦役を負担したが、律令時代の真間・国分期の住居址を見ると、改新前後の鬼高期の住居址は、規模が大小さまざまであったのに対し、むしろ縮小平均化して貯蔵穴も見られなくなる傾向が指摘されている。これは一部支配層が平地式の住居に移ったことにもよるが、多くの貧しい農民層は過重な租税負担で余裕を残せないという貧窮生活を強いられたことによるのであろう。高床式倉庫を所有し得る上層階級と、種もみまで食べつくし蓄積の不可能な大多数の貧窮農民という分解が生じてきており、山上憶良の「貧窮問答歌」に見られるような里正の徴税誅求におびえる貧しい農民生活が展開されていたのであろう。農民の負担が如何に重かったかについては、前述の「租・庸・調」や「軍事と交通」の関係項目を参照していただきたい。

 ところで八世紀頃の越谷付近の農村構造を想定させるきわめて貴重な資料が奈良の正倉院に残されている。それは養老五年(七二一)に作製された『下総国葛飾郡大嶋郷戸籍』である。大嶋郷は後述するように、越谷の東を流れる中川(旧利根川)下流で、中川と江戸川(太日川)にはさまれたデルタ地帯―東京都葛飾区柴又を中心とする一帯といわれ、万葉集にうたわれた鳰鳥が飛び交い、葛飾早稲の実る穀倉地帯であった。この戸籍によって当時の村落構成をみると次の通りであった。

 まず大嶋郷の位置については、古来の考証では『倭名類聚抄』に見える「八島郷」の誤写、または村岡良弼(『日本地理志料』)や清宮秀堅(『下総旧事考』)等の北葛飾郡杉戸町大島附近説が行われていたが、一般には前述のように下総国に近い東京都葛飾区柴又、小岩附近とされ、「甲和里」は東京都江戸川区小岩または葛飾区水元小合町に、「仲村里」は葛飾区新宿三丁目付近または水元小合町の中村に、「嶋俣里」は葛飾区柴又にそれぞれ比定されている。

 同戸籍によると、大嶋郷は甲和、仲村、嶋俣の三里からなり、第15表で示すように戸数(房戸)は甲和里が四四、仲村里が四四、嶋俣里が四二、合計一三〇戸でほぼ均等数の房戸によって構成されていた。これらの房戸はおよそ二~三戸で一郷戸を構成しており、郷戸数も甲和里一七、仲村里一六、嶋俣里一七戸と各里は均等化されている。すなわち郷戸の合計はちょうど五〇戸となっていて令制の規定と一致し、国―郡―郷―里(保)―郷戸―房戸ときわめて整然とした村落支配が行われていたことを示している。

 こうした郷里制に基づき、郷には郷長(従来の里長)、里には里正が置かれていた。大嶋郷では郷長孔王部志巳夫(五十八歳)の下に甲和里には里正孔王部荒馬、仲村里には里正孔王部塩、嶋俣里には里正孔王部小刀良が配され、村落支配の徹底がはかられていた。そして郷戸を単位として調庸の賦課収取、雑徭、兵士役、雇役の差点および義倉の負担を強いられ、房戸の機能はそれら収取、差点の現実的負担単位としての役割を担っていた。

 第15表 大嶋郷の構成
郷里名 郷戸数 房戸数 戸口総数 不課口数 課口数 兵士 正丁 残疾 老丁 少丁 郷戸
(房戸)
平均口数
一郷戸
(房戸)
平均課口数
甲和里 17 44 454 189 265 344 110 12 80 2 4 12 26.7
(10.3)
6.4
(2.5)
仲村里 16 44 367 155 212 255 112 22.9
(8.3)
7.0
(2.5)
嶋俣里 17 42 370 165 205 268 102 9 69 5 2 17 21.7
(8.8)
6.4
(2.4)
大嶋郷(計) 50 130 1191 1191 682 867 324 23.8
(9.1)
6.4
(2.6)

 戸口構成を見ると甲和里が四五四名、嶋俣里が三六七名、仲村里は三七〇名、郷全体では一一九一名、一郷戸平均口数は二四人弱となっている。これを里別に見ると甲和里がもっとも多くて二六・七人、嶋俣里は二一・七人と一郷戸について平均五人の差が見られる。戸口全体に対し、不課口数(納税義務を有しない者)が多く、甲和里が三四四人、嶋俣里は二六八人、ただし課口数は甲和里が一一〇人、嶋俣里は一〇二人で、両者の間にはほとんど差がみられない。これは甲和里には小児や耆老、女子が多かったことを示しており、また三里に共通している点は、女が常に男より多く、正丁・次丁の税負担忌避と何らかの関係があるのではなかろうか。

 郷戸と房戸の規模も区々であるが、郷戸の戸口は四~四二人以上で平均二三・八人、房戸は二~一八人で平均九・一人である。筑前や美濃の戸籍と比較すると郷戸と房戸の間に際立った開きは認められず、むしろ各房戸は郷戸に対し隷属性を示すより独立性が強く認められる。また奴婢は他郷に比し著しく少なく、見在奴婢は三人(奴一人・婢二人)見在寄口は四人となっている。一般に奴婢の人口比率は階級分化の発展度の高いところほど高率といわれ、美濃国肩々里では四三パーセント、国造大庭の戸の如きは六四パーセントにも達しており、大嶋郷と全く対蹠的なのが注目される。

 次に氏族構成を見ると姓の明かなもの七三戸中、六八戸が安康天皇の名代である孔王部姓を名乗っており、他は私部姓四、刑部姓一のみである。おそらく郷内の九〇パーセント近くが孔王部姓であったと思われ、村落ぐるみ名代として設置されていて集団的支配の伝統を残していた。もっとも成員の中には他姓の者も含んでいるから、通婚の範囲は一郷内に限らず他郷にも開かれていたことを示している。

 以上、大嶋郷戸籍によって同郷の村落構成をみてきたが、これが当時の武総地方村落の一般的な姿と思われ、越谷周辺においてもこれと大同小異であったと思われる。