俘囚の叛乱と群盗の横行

165~167 / 1301ページ

平安時代の九世紀後半以降、藤原氏北家を中心とした摂関政治が始まると、北家に関係をもたない多数の中下級貴族層は、政権の中枢から疎外され、やむなく京都で官途に就く望みを捨て、競って国司に任命されて地方へ下向することを望んだ。しかし、地方官である国司に任命されることも容易なことではなく、まして、大寺院造営費や、儀式等の財源確保のために売位・売官の弊風が行われ、官職も収入源とみなされるようになると、とりわけ収入の多かった国司の地位は、中下級貴族の渇望するところとなった。このため国司はそれぞれの任地へ赴任すると、在地農民を撫育し王道主義に基づく善政を施すことよりも、律令機構の末端である国司の地位と権威を利用して農民を圧迫し、可能なかぎりの方法によって私腹を肥やしていった。

 源氏物語の書かれた頃、藤原為朝は孫女の誕生を祝って、

 きさきがね、もし然らずばよき国の わかき受領の妻がねならし(『為朝朝臣集』)

と詠んでいるが、歌の意味は、天皇の「きさき」(皇后)になるか、さもなくば「よき国」(収入の多い国)の国司の妻になってほしいとのことで、当時の中下級貴族の理想をもっともよく示している。

 このように国司がその職を私富蓄殖の機関とみなして本来の国務を顧りみず、おまけに国司の地位が金銭で売買されたり、たとえ国司に任命されても代理の目代を派遣し、或いは在地有力豪族を在庁官人としてその職を執行させ、自分は任地に赴かず収入のみを確保する遥任の制が行われると、地方政治の乱れは深刻化し、これが農民の熾烈な抵抗を喚び起すことになった。すでに九世紀末には、京でも盗賊が横行し、陽成天皇の元慶二年(八七八)二月には、盗賊が夜、紫宸殿に忍び入って軟障を剥ぎ取るという事件すら起り、まして夷俘(いふ)と対し、「辺境」と称されていた関東地域の治安悪化はなおさらであった。

 蝦夷は朝廷に対する順化の程度によって夷俘と俘囚に分かれ、夷俘は麁蝦夷(あらえみし)、俘囚は熟蝦夷(にぎえみし)がそれぞれ俘虜となったものである。彼等は長い間朝廷の勢力範囲外にあったが、やがて帰降して特別保護民としての扱いをうけ内地人化をすすめられたものであった。その方法として八~九世紀頃、内地の各地に強制移送され分散移住させられた。俘囚の置かれた国々では、彼らの生活費、厚生資金に充当するため、出挙稲の一部を割いて俘囚稲を蓄えた。『延喜式』によると俘囚稲計上国は、畿内を除いた三五ヵ国、一〇九万束余を数えた。俘囚稲の量は関東が九州と並んで多く、関東でも蝦夷地陸奥と接する常陸・下野が各十万束ときわだって多く、武蔵は三万束、下総は二万束であった。こうして関東諸国は、蝦夷地経営の兵站基地となると共に、夷俘内民化の主要地域として二重の負担を強いられたのである。

 しかし、この内民化政策は容易なことではなく、どのように教諭し慰撫しても「夷俘ら、狼性未だ改めず、野心馴れ難し」(『類聚国史』・延暦十九・五・二二条)の状態で、実施は困難をきわめた。そこで朝廷は、諸国の介以上の国司を俘囚の専当国司に命じ、また俘囚内から俘囚長を選んで自律的指導と統制に努めた。しかし俘囚の反抗は絶えず、九世紀後半以降は諸国の治安悪化と軌を一にし、それも上総・下総を中心に、後年の平将門の乱、平忠常の乱の先触れとして起ったのである。

 両総地方の俘囚の叛乱は嘉祥元年(八四八)まず上総国で起った。『続日本後紀』の承和十五年(八四八)二月十日条によると上総国司は俘囚丸子廻毛(わにこのつむじ)等の叛逆の状を奏上した。朝廷は二通の勅符を発し、一通は上総国に一通は相模・上総・下総等五ヵ国に下し、協力して俘囚の討伐を命じた。その翌々日再度上総から奏上があって、叛逆の俘囚五七人を斬ったと報告があった。朝廷が上総一国の官兵では鎮圧困難と判断し、下総等四ヵ国に救援の派兵を求めたことから、乱の規模とその深刻さが窺える。そして貞観十二年(八七〇)十二月には、上総国司に対し、近頃夷俘達が野心をもって華風に染らず、かえって民家に放火し、武器を持って人や財物を掠奪し、これにより群盗を生じ社会不安の原因となっているので、無法の夷種を教諭して賊心を改悛させ、皇化に従う者は優恤を加え、若し背反する者があれば奥地に追い良民に危害を与えぬようにせよと命じている。

 やがて乱は上総一国に止らず下総・下野にも飛火していった。貞観十七年(八七五)五月、下総国司文室朝臣甘楽麻呂の急使による奏上によると、俘囚が叛乱し「官寺を焼き、良民を殺略した」と報じている。朝廷では直ちに官兵を発して討伐に当らせると共に、武蔵・上総・常陸・下野等、下総に境を接する国々に兵三〇〇人の発遣を命じ追討させた。これと呼応するかのように翌月下野国でも夷俘の叛乱が起り、一一六人の賊徒を討ち殺している。こうした治安の乱れが、やがてこの地に新興土豪勢力の抬頭を促し、越谷周辺の地にも影響を及ぼしてくるのである。