凶猾党を成し群盗山に満つる

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一方武蔵国の場合は、両総のように俘囚の叛乱こそなかったが、国司制の崩壊による治安の悪化により社会不安は深刻であった。貞観三年(八六一)には、邪悪な心をもった悪漢共が徒党を組み、群盗が山に満つるが如く澎湃としていたため、本来国別一人の設置が原則であった検非違使を、武蔵国では郡毎に一人宛置くという状態であった。当時の武蔵は二一郡からなっていたから、これに従えば二一人の検非違使を置いたことになる。

 検非違使は、司法・警察権を併せもった令制外の治安維持機関で諸国に設置されるように企図されていた。武蔵の設置例は畿内の大和・摂津に次ぐ第三番目と、記録上早い例に属する。関東地方では貞観九年に上総国、同十一年下総国に設置をみており、共に「帯剣把笏」の特権が認められ、武官としての性格を強く示していて、前述の俘囚の叛乱鎮定と深いかかわりをもっていた。

 この検非違使には通常郡領や在地有力土豪から選任される例が多かったが、これは彼等が時によっては国衙に反抗する群盗のリーダーに早変わりしたため、国司は彼等を検非違使や国衙の下級官僚に任じて懐柔し、土豪等が私的に持っていた武力で逆に他の土豪連中を押えるのに利用したのである。ところが、これが他面在地土豪の武官化を国衙側から公認し、武士化を促進させる原因となった。

 こうして、国衙の警察権を強化したにも拘らず坂東の治安悪化はおさまらず、貞観十五年には、さきの十二年九月に太宰府において貢綿掠取の嫌疑をうけ、武蔵等三国に遷されてきた新羅人二〇人のうち、武蔵に遷配された金連等五人中三人が逃亡したため、朝廷では全国にその搜捕を命じている。また、同年十二月、陸奥国では俘夷の叛乱に悩み、その鎮定祈願のため武蔵国の例に倣い五大菩薩像の造立を申請許可されているので、武蔵では早くから治安維持のため、五大菩薩像を造立祈願していたことを示している。これらのことは辺境と呼ばれていた武蔵国が、当時犯罪者の流刑地や盗賊の温床ともなっていたことや、反面、国衙の警察権の弱体だったことを示している。

 その証拠に「扶桑略記」の寛平元年(八八九)の条には、東国強盗の物部氏永等の追捕に一〇年余の歳月を費したとあるし、昌泰年間(八九八~九〇一)かの有名な富豪の輩をリーダーとして、馬を利用した組織的機動的強盗団であった〓馬の党を例にとると「山道の駄を盗んで以って海道に就き、海道の馬を掠めて以って山道に赴き、爰に一疋の駑によって百姓の命を害し、遂に群盗を結んで既に凶賊と成る」(『類聚三代格』・昌泰2・9・19官符)という状態で、一疋の馬のためには百姓の命をも奪い、東海・東山両道をまたにかけて横行し、坂東諸国が共同して追討すれば仲間を解放して他国に逃げ去るというのであった。このため国衙の警察権では、その対応に自ずから限界があった。

 こうして、寛平七年(八九五)から延喜元年(九〇一)にかけ群盗の跳梁は激化の一途を辿り、武蔵・上野等四ヵ国の被害がもっとも甚大であった。朝廷では延喜元年、諸社に奉幣して騒乱の鎮定を祈り、かたや推問追捕使を派遣して事件の解決を図るなど努力の跡が見られたが、さしたる効果を挙げ得なかった。ところがかような反国衙的動きは、被支配者である土豪や農民層だけでなく、国衙それ自身にも内在していた。