前権介源仕の国府襲撃

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延喜十五年(九一五)二月、上野国では介藤原厚載が上毛野基宗等の百姓に殺害され、翌月武蔵国で下手人三人が捕縛されるという事件が起った。この時、介の補佐役である大掾藤原連江は百姓等に何の制止を加えなかったばかりか、賊首と「耳語」を行ない、後にその理由を勘問すると、何ら弁解しなかったというから、連江は百姓上毛野基宗等の国司殺害を黙認し、剰え教唆した節も窺える。当時上野国は親王任国で、介が実際の国務執行責任者だったので、この事件は農民による公然たる反国守闘争だったといえる。さらに事件の経過から首謀者が在地名族の上毛野氏の出であること、介と掾の間に対立のあったことを見落すことはできず、また、これが辺境国衙の在地支配体制の動揺と、支配機構内部のもつ矛盾を象徴的に示したものともいえる。このような国司に対する抵抗はたんに上野の例に止らず、武蔵でも起ったのである。

 延喜十九年五月、前権介源仕が官の財物を奪取し官舎を焼払って、さらには国府に襲来し国司高向利春を攻めようとした事件が起った。源仕は、尊卑分脈によると嵯峨源氏の後裔で、大納言源昇の子であった。本来なら朝廷の枢要の地位に与る家柄であったが、藤原氏の専制体制から疎外され、武蔵権介として下向してきた中級官人であった。仕は都での立身をあきらめ、任期満了後は帰京せず、足立郡箕田郷(鴻巣市)に土着して私営田領主となり、前国司という権威を背景にして近郷農民を従え、国衙に対し十分対抗し得る力を培っていた。その本拠は、仕の子の宛が箕田源次を名乗っていたように、後年箕田庄と呼ばれた庄園であった。宛については『今昔物語』に、村岡五郎(平良文)との合戦譚が収められており、それによると「各(宛と良文)五六百人許ノ軍有リ、皆身ヲ弃テ命ヲ不顧シテ心ヲ励マス」といった、きわめて強大な軍事力を保持していた土豪であった。この軍事力は仕の時代から形成されたと考えられ、それを背景として高向利春を襲撃しようとし、また「運取官物」とあるように国衙に収納されるべき調庸の奪取行為を行ったから、明らかな反国家的行為であった。

箕田館跡

 国司高向利春は延喜十八年宇多院の推挙により武蔵守になった人物で、宇多法皇の寵愛が深く、院の近臣としてかなり辣腕を振った男と思われ、このため武蔵でも苛政をしき、それが仕の反撃を招いたのであろう。『貞信公記抄』によると、事件は飛駅によって京へ急報され、直ちに評議に付されたが、その処置については何ら伝えるところがない。

 こうして、藤原氏の唱導による摂関体制は、政治・経済等あらゆる分野に矛盾を露呈し、特に地方政治は乱れ、各地に無法地帯を生じた。このため悪辣な徴税執行人である国司とそれを支えた藤原政権に対する農民の抵抗は熾烈化し、反国衙行動を続発させ、ついには関東全体を反乱に捲き込んだ平将門の乱へと突入し、越谷周辺もその影響から免れ得なかった。

(嵯峨源氏系図)