将門の乱の発端

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律令政治の弛緩による関東地方の治安悪化を背景に、承平五年(九三五)から天慶三年(九四〇)にかけて起った平将門の乱は、古代関東最大の叛乱として、越谷の古代史のうえでも注目すべき事件と思われる。

 乱の首魁平将門は桓武平氏の出身である。桓武平氏が関東に根を張ったのは、桓武天皇の曾孫高望王が平姓を賜わって関東に下向してからである。王は任期満了後上総に土着し、皇統に連なる権威を背景として私営田経営に当ったらしく、王の子の国香・良兼・良持・良文・良正等はいずれも常総地方に所領を有していた。彼等は国香が常陸大掾、良兼が下総介、良持が陸奥鎮守府将軍に任ぜられていたように国衙在庁に入りこみ、また常陸大掾源護などの在地豪族層と積極的に婚姻関係を結んで一族の勢力拡大を図り、後の坂東八平氏の繁衍の基を築いた。

 将門は良持の子で相馬本郷に生れ、その縁で相馬次郎とも称した。『今昔物語』によると「弓箭ヲ以テ身ノ荘(かざり)トシテ 多ノ猛キ兵ヲ集テ伴(とも)トシテ 合戦ヲ以テ業トス」という武士的側面をもった土豪であった。若年の頃、猿島・豊田郡内の所領が摂関家を本所としていた関係上、上京して藤原忠平(延長八年摂政に就任)に仕えた。『神皇正統記』によると忠平の推挙で検非違使になろうとしたが果さず、怒って帰国したという。当時の地方土豪の勢力を得るコースには二通りあって、(一)は在地勢力の強化であり、(二)は中央政界への進出であった。将門は当初、従兄弟貞盛のように武官として官に仕え勢力を拡大しようとしたが、やがて失望し、故郷に帰って父の遺領の私営田経営に専念したのであり、いわば(二)から(一)のコースを辿ったといえる。

 争乱は、将門が承平年間に伯父良兼と対立し私闘を生じたことに発する。その原因は、将門の乱の基本史料といわれる『将門記』に「良兼、去る延長九年を以って聊か女論に依り、舅甥の中既に相違う」とあって、婦女子をめぐる争いだったと伝え、『今昔物語』では「父故良持が田畑ノ諍(あらそい)ニ依テ遂ニ合戦ニ及ト」あって、所領問題を紛争の原因としている。将門記に従えば、将門が一族の長老である伯父良兼の娘を娶り、それによって父良持死後、劣勢となっていた一族内での発言権を増そうとしたと思われるし、今昔物語の記載に従えば、陸奥鎮守府将軍として扶殖した父良持の遺領をめぐる紛争が一族間の内訌に発展していったと考えられる。当時の関東は、耕地をめぐり土豪間の争いが絶えなかったので、その後あい継ぐ争闘の根深さからみて、所領問題にあったとみる方が自然であろう。

 承平五年二月、将門は平真樹と語らって、伯父良兼の姻縁につながる源護を常陸に攻め、護の三子扶・隆・繁と伯父国香を殺害した。この結果将門は平氏一族と敵対し、国香の子貞盛や良兼の軍と果てしない抗争を続けることになった。最大の敵対者となった貞盛は、その頃京にあって左馬允の職に就いていたが、父国香の討死により、その地位を抛って遺母の孝養と私営田経営のために帰郷したのであった。しかし貞盛は京にあって栄進する夢を捨て切れず、将門との合戦に捲きこまれるのを警戒し戦列に加わらなかった。族長として将門との対決に狂奔していた良兼は、貞盛のこの態度を黙過し得ず「斯れは其の兵に非ざる者」と非難し、「兵は名を以って尤も先となす」と説得した。かくて貞盛は「本意に非ざるといえども、暗に同類と為す」と決意し、良兼軍に合流して以後将門の前に大きく立ちふさがるのである。

将門を祀った国王神社(茨城県岩井市)

 一時、将門は源護の告状によって京に召喚されたが、かえって武名を京にとどろかし、承平七年四月朱雀天皇元服の大赦によって帰郷した。その後良兼と幾度かの戦いが繰返されたが、おおむね将門側が優勢だった。天慶元年(九三八)二月、貞盛は将門には対抗しがたいとして上洛し朝廷に訴え出ようとした。将門は貞盛の讒訴を恐れ、信濃国分寺まで追跡し討破ったが、貞盛は辛うじて京に逃れ上訴した。朝廷は大いに狼狽し将門追討の官符を発した。六月貞盛はその官符を携えて関東に帰ったが、将門勢の勢力が強く、常陸・下総辺に潜伏して再起を期していた。こうして平氏一族の内訌は将門の優勢のうちに一時小康状態に入った。