興世王と武蔵武芝の衝突

173~174 / 1301ページ

一方、将門が貞盛と信濃で合戦していた頃、武蔵国では権守興世王(おきよおう)・介源経基(つねもと)と足立郡司武蔵武芝との間に衝突が起った。興世王は桓武天皇六世の孫、経基は清和天皇の孫で、武門の棟梁清和源氏の祖となった人である。これに対し武芝は、前に述べた武蔵宿禰不破麻呂の子孫で在地の名族であり、足立郡司のほか判官代として国衙の在庁官人をも務めていた。人柄は『将門記』に、部内の人民を慈み、よく統治していて善政の評判高く、国府から租税の未進や納入遅延で咎めを受けたことのない名郡司として紹介されている。

 紛争の発端は、天慶元年二月権守興世王と介源経基が部内巡視の名目で多数の従者を率い足立郡内に無理に入部してきたことによる。この暴挙に対し武芝は、正任の国守の巡視以前に領内に入部した例はないと拒絶した。国司の管内巡視は令の定めるところで、武芝の拒絶は一見不当のように思えるが、実は尾張国百姓等解文でもわかるように、当時の国司は管内巡視を名目に多額の金品を強要することが多かった。案の定、興世王等は武芝の非礼を怒り、武芝の財物はもちろん縁辺農民の租穀まで根こそぎ没収し、残余は検封して引揚げた。武芝は一旦山野に身を隠し隠忍自重したが、この暴挙をみて私財の返還を要求し、他方合戦のために従類を集めた。

 この噂を聞いた平将門は、武芝や興世王とは特別の関係はないが、両者を調停する必要があるといって、私兵を率いて武蔵に入り武芝と武蔵国府に向った。一方興世王は警戒心を捨てない経基を残して狭服山を出て国府に入り、将門の仲介で武芝と和議を結んだ。ところがどうした手違いか武芝の私兵の一隊が経基の営所を囲んだため、経基は驚愕して武芝が将門と連合して自分を攻めたのではないかと疑い、急ぎ上京し、将門謀叛を訴え出た。朝廷は大いに驚き、社寺に兵乱鎮定を祈らせると共に、使いを遣して実否をたずねさせた。将門は常陸等五ヵ国の解文(げぶみ)を得て無実を陳弁し、事件は一応落着した。

 しかし、武蔵の不穏な情勢は正任の国守百済貞連と興世王が不和になるに及んで再び悪化し、やがて興世王は将門と手を結んで国家的な叛乱へと突入していった。武芝はこの事件をきっかけに失脚し、父祖以来有していた氷川神社の祭祀権は女婿である菅原氏の手に移っていった。